巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune85

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.1.17

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(画面設定が1024×768の時、拡大率125%が見やすい)

         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                 八十五

 園枝は何か我が身に、新たな疑いが降り掛かり、それが為、探偵吏(り)が尋ねて来た事となったのに相違無いと心を定め、彼の探偵吏の控えて居る応接間に歩み入ると、探偵吏は非常に静かに手帳を開いて、何事をか調べた末、
 「園枝夫人とは貴女ですか。」
と問い、園枝が、
 「ハイ」
と答えるのを待って、
 「一昨々日、牧島園枝と称し、横山長作と云う探偵の事務所を尋ねた、其の園枝と同人ですか。」

 園枝は何故この様なことを、管々(くだくだ)しく問われるのかを知らない。唯同じ調子で落ち着いて、又、
 「ハイ」
と答えた。探偵は更に園枝の顔を充分に眺め、
 「フム、三年前まで貴女は古松園枝と云いましたネ。」

 古松と云う姓に、園枝はハッと驚いて、其の顔色が、殆(ほとんど)ど土より青くなるのを制する事が出来なかった。
 かつて悪人古松を父として、其の許に養われて居た頃、古松の姓を名乗ったのは勿論だが、我自らの境涯の、甚(はなは)だ汚らわしかったのを厭(いと)い、父の許(もと)から逃げ去って、全く境涯を脱し、我が身を洗うことが出来た心で、常磐男爵と婚礼の時さえも、其の事は既に秘密の中に葬り尽くした過去の事実として、口にも出さずに、心にも忘れて居た者を、如何(どう)して探偵吏は、探って来て、我が身に又も、汚らわしい古松の姓を思い出させるのだろうかと、殆ど嫌な気持ちに我慢がならなかった。

 常磐家幾千万の財産と栄華を捨てて、無一物の元の身に復(かえ)るのを憂しとも辛しとも思わなかった園枝であったが、無一物の非常に潔い今の身より、更に古松の昔に復(かえ)るのは、唯思い出す丈でも、震え戦(おのの)く気がせられ、前後の思慮が整わない迄に、其の心は掻き乱れ、非常に術(せつ)ない声で、
 「ハイ」
と呟(つぶや)くと、探偵は早や何もかも見て取った様に、得意そうに一枚の令状を取り出し、

 「貴女を此の場から直ちに連行します。」
と云う。令状の表には、
 「船長立田を殺害した犯罪に連累した嫌疑を以って云々。」
と記して有った。
 常磐男爵に対する毒殺未遂などと云う嫌疑を記しては無い。

 園枝は、何か新たな疑いに違いないと、思い定めては居たが、船長立田の殺害と云う、此の恐ろしい文字を見ては、それでなくても、幾日以来掻き乱れて居た女の弱い神経、此の驚きに堪(た)えることができず、
 「ウン」
と叫んで歯をかみ締め、椅子の上に悶絶してしまった。

 探偵は少しも騒がず、腹の中で、
 「フム、女の悪者は得てしてこの様な芝居が旨(うま)いので、誠に余計な手数が掛かって困る。」
と呟き、嘲笑(あざわら)う様な顔で、冷淡に眺めて居たが、やがて此の気絶の偽りでないのを見、
 「オヤ芝居でもないのかな。」
と云ったが、周章(あわて)て助け様とはせず、
 「正気に復(かえ)るまで待たなければならないか。」
と言って其の傍に控えて居るだけ。

 この様にして、凡そ二十分ほども経ち、園枝は自然に正気に返り、漸(ようや)く青い顔を上げて、四辺(あたり)を見回しながら、其の眼を次第に転じて、此の探偵吏の嫌が上にも真面目な顔に注ぐや、忽(たちま)ち今の問答を思い出し、ゾッと恐れに襲われた者か、低い声で、

 「アレイ」
と云い、逃げ出そうとして立ち上がった。探偵は其の前に塞(ふさ)がって、
 「令状の意味が分りましたか。サア直ぐに私と同道致しましょう。」
 園枝は真に令状の意味を飲み込むことが出来たのだろうか、否、飲み込んで、自ら之から連行されて行く者と知っていたならば、何とか言葉を発し、切(せめ)ては汀(みぎわ)夫人に、暇を告げる猶予だけでも乞うべきだが、其の事でさえ乞わず、宛(あたか)も夢遊病で、夢中に漫歩する人の様に、踏む足に力も無く、唯フラフラと歩み、探偵に引かれるままに、此の部屋を立ち出で、玄関まで出ると、以前此の探偵を取り次いだ下女は、此の有様を見て、驚いて馳せ寄りながら、探偵に打ち向い、

 「貴方は此の夫人をどうなさる。汀夫人にも知らさずに黙ってお連れなさるのですか。」
 探偵は非常に厳重に、
 「私は此の女に就いては、最も厳密な命令を受けて来ました。容易ならない犯罪の嫌疑ですから、逮捕状を当人が受け取り次第、何の猶予も与えず、他人と口も聞かさずに連行しなければならないのです。」

 唯是だけの言葉を残し、探偵は夢路の様な園枝を引き立てて門に出で、下女が驚いて汀夫人の許へ行く間に、早待たせて有る馬車に載せ立ち去った。
 ややあって、汀夫人も驚いて玄関まで出て来たけれど、此の時は既に馬車の影も見えなくなっていた。


次 後編(八十六)へ



a:536 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花