sutekobune86
捨小舟 (博文館文庫本より)(転載禁止)
メアリー・エリザベス・ブラッドン作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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捨小舟 後編 涙香小史 訳
八十六
園枝は馬車に乗せられて、何の所に連れて行かれるのか、自分では知らなかったが、かつて父となって我が身を養って居た、悪人古松の罪の為に、今我が身が拘引(こういん)《逮捕》して行かれるもので有る事を知った。
初めは昔の汚らわしい境遇を思い出す、其の腹立たしさと、是から如何なる事に成って行くのだろうという、其の心配から、唯震え戦(おのの)くばかりだったが、如何ほど辛い目に逢うとも、我が身の今迄の辛さより辛い事の有る筈はない、今迄の辛さにさえ耐え忍んで、良く一身を支えて来たのに、此の後の辛さに耐える事が出来ない事があるだろうか。
我が身は良人(おっと)とした常磐(ときわ)男爵から、女の身に有ってはならない、不義の疑いを受け、生涯の力を唯其の汚名を雪(そそ)ぐ為にだけ尽くそうと決心して家を出たのだ。茲(ここ)で自ら挫(くじ)け、其の決心を果たす事が出来ずに終わるべきでは無い。
不義の疑いも人殺しの疑いも、受ける身は一つである。同じ決心を以って雪(そそぎ)ぎ尽し、再び此の身を、後ろ指さえも指す人の無い、清い地位に引き上げる迄は、死すとも気力を落としてはならないと、漸(ようや)く思い直して自ら励まし、毒虫の様な探偵と相乗りした儘(まま)、物をも云わず、泰然と落ち着いて馬車の行くが儘(まま)に任せて置くと、半時間も馳せた後、馬車は「ボウ、ストリート警察署」と札を掛けた、厳しい構(かまえ)の中に入り、石を敷き詰めた、冷たい廊下の入り口に留まった。
茲(ここ)で馬車から引き降ろされ、総て被嫌疑人を入れて置く為に設けられたと覚しき、薄暗い一室に投ぜられたが、頓(やが)て彼の探偵は、同僚と見える一人を連れて来て、之に園枝の顔を示した。
園枝は知らない人に、顔を見られるのも厭(いと)わしかったが、徒(いたずら)に顔を隠して、我が身に罪の覚えが有るため、他人に顔を見られる気力も無いかなどと思われるのは、更に辛いので、冷然として我が顔を其の人の方に向けると、何と愚かだったことだろう、その人は先の日、園枝が義侠心ある探偵と聞き、不義のの汚名を払う為、皮林の悪事を探偵して貰おうと思って、頼って行った、彼の横山長作と云う人であった。横山は園枝の顔を見、非常に満足そうに、
「アア是だ、是だ、好く早く逮捕して来て呉れた。」
と以前の刑事探偵を褒めそやす様に云い、共々に立ち去った。
園枝は我が身の為に、幾分の力にと思った横山が、却(かえ)って我が身を逮捕させた本人で有る事を知り、多少の失望をしないわけには行かなかった。
しかしながら、今更其の仔細を怪しみ考えようともせず、総て我が身の不運不幸のため、一たび相接する人が、皆我が身の敵になるのだろうと、断念(あきら)め、何も彼も成り行きに任せて待つと、此の日は何の調べも無く終わり、長い一夜も漸(ようや)く明けて、
「嫌疑のため逮捕した者は、遅くも二十四時間以内に調べを始めなければならない。」
と云う英国警察の掟の刻限が、将に尽きようとする、翌日の同じ頃に至り、初めて審問の場所に呼び出された。
何事を調べられるのだろうと思うと、今は覚悟を決めた身も、今更の様に、多少の恐れは無いわけではないが、宛(あたか)も常磐男爵夫人として、常磐家の応接の間に歩み入った時と同じほど、威儀を正し、悠然として歩み行き、審問官に面すると、審問官は先ず、
「其の方はかつてラトクリフと云う所に住し、古松と云う父に養われた園枝と同人であるか。」
と問い、
「父の家を出たのは、何年何月であるか。」
と問い、園枝が有るがままに答えるのを待ち、更に、
「其の方が家出する前に、父古松の家に於いて、船長立田と云う者が殺された事が有る、其の方は知って居るか。」
と問うた。
園枝は当夜の恐ろしかった有様を思い出し、静かな顔の面に、我知らず血色を騒がせて、
「ハイ、古松の家へ其の船長が来た事は知っています。」
と答えると、審問官は唯是だけで、
「夫(それ)で好し。」
と頷(うなず)き、直ちに裁判の予審に移す旨を言い渡した。
勿論、既に船長立田殺害の共犯として、令状まで発したものなので、委細は既に横山長作から、夫々手続きを尽くし、係官に書類を備えさせ、警察においては、唯人違いで無い事を調べる丈で、事足りるまでに運んで有る物に違いない。
園枝はこの様な事迄は考える事が出来ず、唯命ぜられる儘(まま)に、此の日再び馬車に乗せられ、裁判所付属の未決監へと移された。
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