巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune87

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.1.19

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

              八十七

 園枝は未決監に入れられてから、直ちに岩波判事と云う予審官の係りとなった。当時の裁判は今の世ほど進歩せず、裁判官はいずれも唯厳重をのみ旨(むね)として、動(やや)もすれば被告人と罪人との区別を忘れ、未決の嫌疑者を、殆ど既決の囚人と同様に見做(みな)して、穏やかではない審問の法を用い、問うべからざる事を迄問い詰めて、却(かえ)って世の謗(そし)りを買った事も多い。

 中でも此の岩波判事と云う人は、最も老巧であるとの評判が高いと共に、又最も厳重との評判が高く、罪人社会から非常に恐れられた人であるが、園枝が此の人の手に属する事となったのは是幸いか是不幸か。

 それはさて置き、園枝は第一回の審問に、船長立田の変死した当夜の事情を最も詳しく問われた。悪事にもせよ、父となって我が身を養った其の人の罪を、口外するのを好まず、今までは堅く秘し、夢床(むび)《夢》にも語る事を、肯(あえ)てしなかったが、茲(ここ)に及んでは包み難く、初めて船長を水夫倶楽部の酒場で見た事から、船長が父と其の酒店の主人に連れられ、古松の家に来た事、其の夜の父の振る舞いと我が身の所為、引き続き父古松と共に住む恐ろしさに耐えられずに、家を出た事まで、残らず語った。

 岩波判事は、其の間に園枝の容貌風采に由り、又其の言語に由り、今まで手掛けた幾多の被告、幾多の囚人とは全く趣の異なるのを見、これが悪人ならば古今無類の毒婦、若し又悪人でないならば真正の貴婦人であると、流石老練な眼識で早くも見て取り、之を毒婦として扱かおうか、はたまた貴婦人として尋問するか、暫(しば)し思案する様子だったが、初めは先ず柔らかく、なるたけ容易に口を聞かせ、其の言葉に乗ずべき隙間があれば、忽(たちま)ち猛虎の様に、威を以って圧倒し、偽りを陳述することが出来ない様にすることが、当時一般の審問法だったので、先ず貴婦人として扱うことに決めた様に、言葉も非常に丁寧に、

 「貴女が爾(そう)言い開けば、最早貴女の身に少しも疑う所はなく、貴女は全く其の犯罪に無関係の方ですが、夫(それ)にしても父の家を逃げ出すとは、何故(なぜ)でしょう。露見を恐れて逃亡する例は好く有りますが、身に悪事が無くて逃亡するとは。」

 云い掛けて穏やかに園枝の顔を見て、
 「イヤ、貴女は父の犯罪が汚らわしく、自分の清い身を其の汚れた中に置く事は、如何にも辛抱が出来ないように仰(おっしゃ)いました。けれども他人の家ならば兎に角、現在の父の家、即ち我が家です。其の家に生まれ其の家に育てられた者が、十数年も経て急に其の家が汚らわしくなるとは、聊(いささ)か合点が行きません。夫(それ)とも極初めから汚らわしいのを、我慢して十余年も耐えたが、もう我慢が出来なくなったのですか。」

 園枝は何の色をも顔に浮かべず、唯石の様に落ち着いて、
 「其の通りです。」
 判「フム、初めから父の家が汚らわしいとは、益々変です。清い家から其の家へ入り込めば、入り込んだ初めから汚らわしく感じましょうが、其の汚れた家で、汚れの中に生まれれば、汚れは感じない筈でしょう。夫(それ)とも貴女は!」

 園枝は断固たる口調で、
 「ハイ、私は古松の家で生まれたのでは有りません。古松の血を承(う)けて生まれた娘ではないのです。」
 アア園枝は真に古松の子ではないのか。判事も是には驚いて、
 「エ、貴女は古松の子でないと仰(おっしゃ)るか。」 
 園「ハイ、初めから古松を父とは呼びません、唯幼い頃古松が私に向い、自分を父と呼べと云い、私が其の言葉に従わない為、厳しく打擲(ちょうちゃく)《殴る事》された事を今もなお覚えて居ます。」

 判事は此の意外な白状に、猶更(なおさら)怪しさに駆立てられ、知らず知らずに問い立てる人の様に、殆ど迫込(せきこ)み、
 「フム、打擲されるのが辛さに止むを得ず、古松を父と呼ぶ様になったのですか。」
 園「ハイ」
 判「其の前は誰を父と言って居ました。」
 園「充分には存じませんが、今でもどうかすると柔和な懐かしい面影が、自分の目先へ浮ぶ様な気が致します。その面影が私の本当の父で、私を愛し育てた人だろうと思います。」

 判事は眉を顰(ひそ)め、
 「夫(それ)だけでは、貴女の言葉は裁判所で言立てるべき事実ではなく、全く妄想と云うものですが、其の貴女が実(まこと)の父と云う其の人の姓名は何と云います。」
 園「其れを充分に覚えない頃、私はどうしてか古松の手に渡ったものと思いますが!」
 「が」と云って、更に何事をか云おうとする間に、判事は重ねて問いを発し、

 「貴女の生まれた土地は何処です。」
 園「夫(それ)も今では覚えていませんが、多分は伊国(イタリア)だろうかと思います。」
 判「伊国の何の辺です。」
 園「夫(それ)もお返事は出来ません。」
 判「フム、夫(それ)では愈々(いよいよ)以って妄想に止まると云うものです。」
と云い、判事の目には又も疑いの光りが輝き始めた。


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