巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune93

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.1.25

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                  九十三

 園枝は実に判事を忘れ、法廷を忘れ、唯憤然として、其の所から立ち去さるばかりの、身構えだったが、咄嗟(とっさ)の間に脳髄は稲妻の様に働いて、忙しく考えて見ると、判事が、「恐ろしい毒薬」と云ったからには、我が立ち去った後で、男爵が毒害に罹(かか)ったのに相違無い。アア、男爵は死んだかと、驚き騒ぐ事は大変なものだった。

 良人(おっと)に非(あら)ず妻に非ずと言い合った末とは言え、園枝の身に取り、男爵は忘れようとして、忘れることが出来ない終生の大恩人である。それに、園枝が清き女の心情を以って、後にも先にも唯一人の良人として、熱心に愛した其の人である。如何(どの)様な不和が隔てたからと云って、その人が劇毒に罹(かか)って死んだと思うと、心が紊(みだ)れ無い訳にはいかない。

 園枝は実に狂乱した人の様な人の声で、一言非常に高く打ち叫び、
 「シテ男爵は其の毒薬を呑みましたか。呑んで一命を落としましたか。」
と問うた。判事は心の中で、此の女、見掛けに寄らない真の毒婦にして、自分が盛った其の毒が、真に男爵を殺したか否かを知ろうとする為、この様に打ち叫ぶ者に違いないと思い、更に此の次には、必ず、「男爵の遺言は如何したか、常磐家の財産は何人に伝わるか」を問うに違いないと、窃(ひそか)に期して待ちながら、非常に静かに、

 「ハイ、貴女は其の毒殺の本人である嫌疑を以って調べられるのです。」
 毒殺の本人であるとして。
 さては男爵早や既に毒殺せられ了(おわ)ったことは明らかである。園枝は又一層の悲鳴を発し、
 「早や男爵は死にましたか。エエ悪人の企みがここまで運ぼうとは、エエ、悪人め、早く私を常磐家へ帰して下さい、男爵が死んだのに、茲(ここ)に斯(こ)うしては居られません。」
と我知らず打ち叫んだが、判事の益々厳かな顔を見て、更に何事をか思い出した様に、絶望に身を震わせ、

 「オオ、恐ろしい、男爵は私を毒殺の本人と思って死にましたか。ハイ、死ぬ時迄園枝に毒害せられた者と思い詰めて死にましたか。死際の人にまで爾(そ)う思われ、もう私の身は浮ぶ瀬が有りません。此の世に生き存(なが)らえる甲斐もない。」
と云い終わるか終らないうち、荒れ狂って法廷から駆け出だそうとし、出口の方に走り去った。事に慣れた判事の目は、早くも此の狂い方が、偽りでは無いのを見てか、

 「ヤ、大変だ、発狂した。」
と云い、更に又大声に、
 「早く其の女を取り押さえよ。」
と叫ぶと、一方から現れ出た二人の獄丁は、飛鳥の様に飛び掛って、園枝が未だ閾(しきい)の外に、一歩も踏み出ない間に、ひしひしと押さえ付け、判事の前に連れて来ると、園枝は更に悶掻(もが)いて止まない。アア真に園枝は狂人と為ったのだろうか。判事は暫らくの間、悶(もだ)え掻(あが)く園枝を、打ち眺めるばかりであったが、狂人を取り調べるのは、法の許さない所なので、

 「直ぐに医者を呼んで来い。」
と命じた。
 命に従い、獄丁の一人は立ち去ったが、ややあって、監獄医が其の獄丁の先に立って入って来て、非常に簡単に園枝の様子を見た上、判事に向い、
 「なに、ヒステリーでしょう。発狂では無いでしょうが、余ほど神経が惑乱していますから、引き続いて熱でも発しなければ好いが。」
と云った。

 判「病室に送るほどでしょうか。」
 医「夫(それ)は勿論です。兎に角も病室に入れなければ成りますせん。未だ少し合点の行かない所も有りますから、病室に送った上で、良く診察して見ましょう。其の上で改めて申し上げます。」
 医師と判事がこの様に問答する間にも、園枝は身外(しんがい)一切の事が、其の心に移り行かないかの様に、取り押さえて居る獄丁の手にも余る程の力を出して悶掻くばかり。医師は獄丁に向い、
 「その様に酷(ひど)く押し付けてはならない。自由に悶掻(もがか)して置け。」

 獄丁「自由にすれば外へ走り出て仕舞います。」
 医師「何その様な事は無い。」
 この様に言って、医師は夢中の様な園枝の身を、獄丁の肩に扶(たす)けて連れ去ったが、是から一時間ほど経て、此の医師は更に此の判事を控え室に訪い来て、
 「早速病室に入れ、良く同僚と共に診察致しましたが、そう軽くは見られない病症です。熱も多少は発しましたが、特に神経が余ほど乱れて居ましてーーー。」

 判事は腹の中にて、
 「フム、良人(おっと)を毒殺する程の罪を犯せば、自然神経が安まらないテ。」
と呟(つぶや)きつつ、更に後の言葉を聞くと、
 「口の中に絶えず『悪人め、悪人め』などと言っています。尤も病気はナニ一命に拘わりませんが、夫(それ)にしても、事に由ると随分長引きます。此の後、七、八ヶ月は取調べる事は出来ないでしょう。」

 判事は怪しみ、
 「その様な病気だろうか。」
 医{ハイ}、病気は兎に角、アノ婦人は確かに懐妊しています。」
 判「エ、エ、何だと。」
 医「腹に子供が宿っています。」
 判「夫(それ)は厄介な被告だなア、仕方が無い。アア分かった、アノ女が常磐家を立ち去る時、小部石(コブストン)大佐に話したと云うのは其の事だ。大佐に懐妊の気持ちだと打ち明けたから、大佐が懐妊と云えば、一言で男の心が解けるだろうと思い、男爵の部屋へ行って過って毒に罹ったのだ。」
と判事は独り語の様に云った。


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