巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune95

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.1.27

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                  九十五

 男爵はこの様に旅行する事に決し、留守中の取り締まりを初めととして、財産の管理などは、兼ねて夫々係りの人があり、男爵は心を労するに及ばない。唯死人同様な小部石(コブストン)大佐を連れて行くことに就いては、大佐を安楽に乗らせるための、輿(かご)や寝台の類を作らせ、船にも車にも総て寝台の儘(まま)で載せる事とし、数日にして其の用意を調(ととの)いた。

 此の旅行の目的は一身の不幸を忘れる事にありとは云え、男爵はまだ我が留守中に、園枝の予審調べが如何に成り行くかと、それだけは心に掛からずにはいられない。依って予(かね)て雇っている書記の一人に、留守中の事は総て旅行先まで書き送るべしと命じ、甥の永谷礼吉へは幾何(いくら)かの手当てを渡し、我が留守中は天晴れ常磐家の相続人として恥かしくない様、神妙に行いを慎むべしと厳重に言い渡し、愈々(いよいよ)出立の前日とはなった。

 此の日例(いつ)もの様に、諸方から届いた手紙の中に、見慣れない筆跡の一通があった。男爵は打ち続く心労に、神経が穏やかでない時なので、此の手紙が何やら気に掛かり、我が身に此の上不幸を掛ける端緒(いとぐち)の様に思われ、開き読むのさえ気味悪い。依って其の手紙を封の儘(まま)衣嚢(かくし)に納め、外の手紙を悉(ことごと)く読み尽くし、返事すべきは返事をも認(したた)めつくし、夜に入って後、独り寝床に退く頃、封を切って先ず差出人の名はと見ると、果たせるかな無名の手紙である。

 先にも無名の手紙に欺かれ、遊山場から馳せ還(かへ)って、辛い想いをした事がある。夫(それ)と是とは筆の跡も同じでは無い、無論別人の所為とは見えるが、無名の手紙は重きを置くものでは無い。読まずに、火の中に投じようと、揉(も)み丸めて立ち上がったが、否々先の無名の手紙も、満更偽りであるとは云えなかった。家に帰れば、園枝の不義の証拠を、見出すことができるだろう記してあって、果たして其の文の様に不義の証拠を見出す事が出来た。
 此の手紙に何事が認(したた)めてあるとも、読む我が心さえ確かならば、読んで害になる事があるだろうかと、際どくも思い直し、再び其の皺(しわ)を引き延ばして読み下すと、

 「常磐男爵閣下、閣下が今日の不幸は、閣下を知ると知らざるとの別なく、聞く人の皆酸鼻する所である。至福至楽の天国から忽ちにして痛悲痛恨の地獄に落ちた。閣下は之を偶然にこの様に成ったものとお思いでしょうか。閣下は実に誤っています。悪人の為に欺かれているのです。

 閣下の気付かない辺に悪人がいます。陰謀奇詭は遂に閣下の幸福を奪い尽くしました。余は明白に其の次第を知っています。余は実に彼の遊山の当夜ヤルボローの古塔に泊まり合わせ、夫人園枝が如何ほどの辛きを忍んで、一夜を明かしたかを知っているからです。

 夫人園枝は其の操に一点の汚れもありません。今の貴族社会に真の貞女と云い、烈女と云う者を求めれば、余は常磐男爵夫人園枝に比すべき者が無いのを知っています。其の貞烈無比の園枝夫人、今は不義者と疑われて獄に在る。全く悪人が閣下を欺き、此の次第に至らしめたものです。

 閣下の不幸は総て園枝夫人を疑うことから来ています。閣下は園枝を信じ園枝を愛した頃の、一身如何程楽しかったかを忘れたのですか。園枝夫人に何の不義ある、何の証拠ある。閣下が証拠と思うのは総て事情に欺かれたことです。直接の証拠は一も有りません。

 閣下を毒害しようと図ったのも、園枝ではありません。即ち園枝に不義の名を負わした同一の悪人です。閣下は皮林育堂が、如何に巧みに閣下の家に入り、如何に微妙に閣下の心を麻酔させたかを忘れましたか。閣下は幸いにして、毒害を逃れる事が出来ましたが、未だ続く不幸を免れていません。

 そうです閣下自ら、初めから悪人の陰謀に落ちて、徹頭徹尾欺かれた事を悟らなければ、何時までも此の不幸を免れる事は出来ません。閣下の生涯は一生不幸です。旅行をするとも、不幸は更に悪人と共に閣下を追い、閣下の到る所に来るでしょう。

 閣下若し其の陰謀の次第を知り、今迄の不幸を一掃し、元の至福至楽なる境涯に帰ろうと欲すなら、明後日の夜七時を以って、倫敦(ロンドン)にある左の所に来て、「伊国人」に逢い度いと申し込まれよ。余は一々確かな証拠を以って、閣下の疑いを解き尽くしましょう。余は偶然の事柄から深く顛末を知る者です。

 但し閣下よ、余の言葉を聞こうと欲せば、此の手紙を何人にも示す勿(なか)れ、目下閣下の信用している、横山長作にも語る勿れ。他人に語り又他人と共に来る様な事があれば、余は閣下に逢う事は出来ません。」
云々と記し、なお終わりに密会の場所を記してあった。

 男爵は繰り返して幾度か読み直し、殆ど此の手紙に、麻酔せられたかと疑われるほど見詰めた儘(まま)眼を離さず、 
 「本当に此の通りだ。不幸は総て園枝を疑った時から始まったのだ。成るほど直接の証拠は無い。不義と云っても、見届けた訳では無く、証拠と云うものは事情ばかりだ。ヤルボローの古塔とは、園枝も自分で爾(そう)云った。古塔で一夜を苦しみ明かし、フム、爾(そう)すれば操に欠けた所はない、ハテな、貞女、烈女かな」
など、うわ言の様に呟(つぶや)いたが、忽ち憤然として、立ち上がり、

 「アア痴情(ちじょう)、痴情、既(すん)での事で此の手紙に欺かれる所であった。己(おれ)が此の様にまだ痴情を持って居るから、誰かが己を愚弄するのだ。ヤルボローのあの古塔に、泊まり合わす人など有るものか。アア爾(そう)だ、爾だ、園枝に誰か相棒が有って、此の様な手紙を寄越し、未だ己を欺こうとして居るのだ。爾(そう)とも知らず、危(あぶ)なく釣り込まれる所であった。己(おれ)に痴情が残る間は、どうしても不幸は逃れられない筈だ。早く旅行して今迄の事は一切忘れて仕舞わなければ。」
と云い、決然と立って、今度こそは未練も無く火の中に投じ終わり、

 「アア是で蕭然(さっぱり)した。」
と云い、其の儘(まま)寝床に入ったが、果たして此の手紙の事を再び思い出さないほど、蕭然(さっぱり)する事が、出来たのかどうか。


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