sutekobune96
捨小舟 (博文館文庫本より)(転載禁止)
メアリー・エリザベス・ブラッドン作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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捨小舟 後編 涙香小史 訳
九十六
日耳曼(ゲルマン)に添(そっ)た瑞西国(スイス)の国境にシャフホーゼンという一駅がある。欧州絶景の一に数えられる、ライン河の瀧から僅(わずか)か数町(数百m)の川上にあって、木茂って水清き山間の村落なので、浮世を忘れて病を養う客などには最も適当な境であるとか。
茲(ここ)に此の頃建設した宿屋がある。其の一室に男一人、女一人差し向かいで泊まっている客は、是はどうした事か、かつて常磐男爵の許(もと)に客と為り、物持ちの息子株を良人(おっと)に選び定めようと、交際の秘術を尽くし、不幸にして毎(いつ)も失望に終っていた彼の倉濱小浪嬢と、かつては英国武官の端にも列なり、唯無芸無能なるがために、罷役(ひやく)とはなったが、今猶(いまなお)倉濱罷役少佐と人に呼ばれる、小浪嬢の実兄である。
両人は今しも夕飯を終え、東の峰から差し上る月に浮かされ、散歩にも出るべき刻限なのに、何か気に掛かる事が有るのか、窓外の夜の景色には目をも注がず、物思わしそうに、額(ひたい)と額を突き合して相談している。嬢は殆ど訴える様な声で、
妹「ダッテ兄さん、払いをせずに此の宿に長く居ると云う事は出来ないから、何うしても至急仏国(フランス)へでも行き、何とか滞在費の算段をして来て下さい。近いうちに催促されるに決まっていますからサ。」
罷役少佐は殆ど困った面持ちで、
兄「何とかして常磐男爵の客分と為り、隣の宿へ男爵と一緒に泊まり込む工夫は無いかなア、爾(そう)すれば払いの心配無しに、何時までも逗留されるが。」
妹「アレサ夫(それ)も出来ない事はないけれど、今客分と成っては拙(まず)いのですよ。男爵が先に宿を取って、後から私等が来た者なら兎に角も、男爵が仏国を旅行して居る間に、ヤッとの事で男爵が此の次には此処へ来ると云う事を聞き出して、此方(こちら)が先に此の宿へ来て、男爵の来るのを待って居て、図らずも落ち合った様に初めからして有るから、何所までも其の形で推し通さなければ了(いけ)ません。
男爵が此の宿へ泊まらず、隣の宿へ泊まる事に成ったのは、此方の目算違いで仕方も無いが、夫(そ)れだからと云って、先に来た此方が、後から来た先方へ転がり込むのは、余り不見識です。男爵は見識の有る女の外は愛しません。前に園枝なども、乞食の癖に、厭に見識を張って居たから、夫(それ)で男爵が騙(だま)し込まれたのです。」
兄「けれど逗留の費用が続かない様では、見識も張り通せないぞ。」
妹「イイエ、それはもう永い事ではありません。毎日私があの小部石(コブストン)大佐を見舞いに行き、其の序(ついで)に男爵に親切を尽くすから、男爵も心淋しい折柄なので、真に好い旅連れを得たと云い、この上も無く喜んで居ます。」
兄「夫(それ)は己(おれ)も知って居るがーーーー。」
妹「一月と経たない中に、男爵は私の傍を離れる事が出来なくなります。」
兄「和女(そなた)の目算は今まで随分外れて居るからなア。」
小浪嬢は少し恨みを現し、
「貴方が爾(そう)云うならば、もう何も彼も罷(や)めて仕舞い、国へ帰るより外は有りません。私が男爵の妻に成らなければ、兄さんだって、もう世を渡る手段が無いじゃ有りませんか。」
兄「夫(それ)は爾(そう)だ。和女(そなた)が金満家の妻に成って助けて呉れなければ、己(おれ)は国へ帰っても、借金のため牢に入れられる許かりだ。」
妹「夫(それ)御覧なさい。夫だから何とか工夫をして来て下さい。それももう永い事では有りません。此の後三月の費用が有れば沢山です。」
罷役少佐は渋々と考えて、
「仏国には罷役給の証書や勲章を質に取る所が有るから、一月位の費用なら出来るかも知れないけれどーーー。」
妹「ナニ妹が瑞西で常磐男爵と一緒に居ると云い、此の後の見込みを旨(うま)く暗示(ほのめ)かせば大丈夫ですよ、借り増しが出来ますよ。貴方は男の癖に本当に意気地が無い。私などは御覧なさい。アレほど借りのある仕立て屋へ、又四季一組の行李を拵(こしら)えさせて来たでは有りませんか。」
兄「サア夫(それ)よ、仏国へ行くのは、其の仕立屋が恐ろしいのよ。彼奴(きゃつ)は今丁度英国から仕入れの為、仏国へ来ているから、若し己(おれ)が見つけられて見ろ、兄と妹の差別も無く責め立てられる。昨日もアレほどの厳しい催促状をお前の許へ寄越したから、アノ剣幕ではきっと己を捕えて、罵(ののし)らぬとも限らない。」
仕立て屋の事を聞いては、嬢も心に驚かないわけにはいかない。此の当時は、今の世の様に流行社会の貴婦人が、全財産を使い果たして、借金を踏み倒すなどと云う便法が有る筈はなく、借金の為に他の破廉恥の罪人と共に牢に入れられ、『借金』を払うことが出来ない罪人の裁判廷(インソルベント、デッドルス・コート)に移される例があるので、旨く口先筆先で云延ばしてゆくとは云え、実に仕立て屋の勘定は昼間と云えど、更に恐ろしい夢の様に、常に嬢を魘(うなさ)せて居たのだ。嬢は頓(やが)て、
「其の払いも、茲(ここ)に此の上幾月か滞留して、目的通り男爵と婚礼しなければ、払う道が有りません。」
兄「それは爾(そう)だ。仕方が無い、明朝立って、仏国の都合に由っては英国まで行って来る事にしよう。」
是で漸(ようや)く相談は纏(まとま)ったので、嬢はこの様な心配の為、我が美しき顔に小皺の数が増すのを好まず、直ちに気を変えて、天然の笑みを浮かべるため、独り歩んて庭に出で、世界に並び無い瑞西(すいす)山中の月夜の景を眺めながら、逍遥すると、怪しいことに、何人か樹の間より現れ出て、
「オオ倉濱小浪嬢ですか。好い所でお目に掛かりました。」
と云う者があった。嬢は驚いて逃げようとしたが、何うやら耳に聞き覚えがある声なので、月に透かして其の顔をよく見ると、今から半年ほど以前、昨年の秋の末に、常磐荘に客として逗留していた頃、親しくしていた、彼の皮林育堂である。
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