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妾(わらは)の罪

黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.1.7

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  妾(わらは)の罪    涙香小史 訳   トシ 口語訳

                 第二十七

 今見た村上の姿は何者だろう。妾(わらわ)の神経の仕業だろうとは言え、神経の仕業でこの様にまで有り有りと目に見えるのは不思議だ。そうすると村上の幽霊だろうか。村上が生きてここに居るはずはない。だからと言って今見た姿が他人の姿とは思われない。妾はただその姿が出て行った戸口を眺め、しばらくの間、魂が体から抜け出したかと怪しまれるばかりに呆然としていたが、
 「オヤ、貴方は何をその様に御覧なさっているのです。」
と耳に入る看護婦の声に心付き、

 「アア、そうでした。ツイうっかりしておりましたが、今ここに居た方は何方ですか。」
 看護婦は怪しそうに妾の顔を眺め、
 「何を仰(おっしゃ)ります。誰もここには居ませんが。」
 (妾)「イイエ、今ここに立って廊下に出て行った若い紳士は。」
 看護婦は笑みを含んで、
 「貴方は又夢でもご覧なさったのでしょう。誰も出て行きは致しません。ここに居るのは私と貴方だけですもの。」

 (妾)「アレ、たった今出て行ったから私がぼんやりして見送っていたではありませんか。」
 (婦)「イイエ、それは貴方の思い違いです、。誰も出て行きはしません。」
 言うその顔付きに偽りの様子も無い。又も妾の心の迷いだろうか。確かに村上の姿と思い、起き上がって見送った程なのに、誰もここに居なかったとはここまで神経が狂うものだろうか。妾はあまりのことに恐ろしくなり、思わず身震いをした。

 (妾)本当に誰も居ませんでしたか。
 (婦)何で私が嘘など申しましょう。
 最早疑うところは無い。全く村上の魂魄が今だ静まっていず、絶え間も無く妾の身の回りに漂っているのだ。妾はこれから祈りを始め、
 「神よ、妾の罪を許したまえ。村上の亡き魂を安(やす)ませたまえ。」
とそればかりを唱え続けたが、何時の間にか又眠った。眠って再び目を覚ますと夜の何時かは分からないが、天井につるしてあるランプの光も空しく病人の夢路を照らすだけ。

 看護婦も何処かに去ったと見え、側には居なかった。辺りも静かで物の音総て絶えていた。妾は又も村上の事を思い始め、つくづくと考えてみるに、先ほど見た彼の姿は、世に言う幽霊とも思われず。もしやこの病院の中に、村上に似た人は居はしないか。その人が廊下を通る姿を見て、心の迷いから村上と見違えたのではないだろうか。そうでなければ夢でもなく、現(うつつ)でもなく、全く目が覚めていて、ありありとその姿を見るはずが無い。こう思ったので急にこの病院の中を探してみようとの心が生じ、探して愈々村上に似た人がありと認めるまでは一刻も安心が出来ない。

 我が体は病に疲れ、我が心は迷いに暗むとも、監獄の病院と言えば構内はそれほど広くはなく、隅の隅まで残りなく見回るのも難しい事があろうかと一人心を定めたので、大胆にもベッドを降りると足がよろめいて腰さえも伸びない。にじり寄って壁に手を掛け、漸く廊下に立ち出でたが、ここにも更に人の影は無い。

 これ幸いと力を得て、なおもその壁にもたれながら進んでいくと、歩むのに従い足の力も戻って来たと見え、覚束なくても壁を離れ、空飛ぶ鳥の翼のように両手を広げて舵を取りながら徐々と歩く事になった。森として静かな廊下だが足が弱いので踏み音もしない。やがて一方の角を曲がると向こうの方に出入り口があり、外で照る月は日陰に降った霜より清い。初めて村上と誓ったのはこの様な夜だった。

 思えば又ぞっとして身震いしたが、妾は何故か月を踏んで歩きたくて、監獄付属の牢屋とは言えど、これほど一目が少なくて出入り口さえ開け放してあるのは、逃げて出られない事もない。逃げ出る心は露ほども無いが、こう思うと我が身の自由も一層広くなった心地をさせられ、何時の間にか草平らな庭の中ほどに立っていた。見渡せば妾が住んでいた古池家の裏庭の半分もないが、月高く星は遠い。ただ四方に回らす鉄の塀は厳かに妾を見張っているように思われるだけだ。

 気詰まりだがベッドの上で枕を友としていた身にとっては極楽世界の思いがする。妾はしばらく村上の事をさえ忘れ、恍惚として佇んでいたが、時はまさしく秋の半ばなので、身に浸みる風の寒さに驚き、振り返って帰ろうとすると、悲しい事に足腰の力が尽きて一歩行って倒れた。起き上がって立とうとしたが、身の重いこと石のようであった。

 これではならないと又起きて足に満身の力をこめ、二足ばかりよろめいたが結んであった草に躓(つまづ)いたのか、俯(あお)きざまにどうと倒れた。倒れたままで動くことも出来ず、息も絶え絶えに伏せてたまま次第次第に心が遠くなって、宛(あたか)も夢現(うつつ)の如くなったのは、半死半生の境ではないだろうか。今迄聞こえていた虫の声も次第に細くなって行くようで、ついには聞こえるか聞こえないか自分では分からなくなった。耳までも早や働きをやめたと知る。

 アア、読者よ。妾はこのまま死んで行うしているのに違いない。生きたのか死んだのか自分では分からない。ただ身の辺りが何となく緩やかになり、寒さも無く熱さも無く、月も無く闇もない恍々たる世界に一人休んでいるのかと疑われる。この時何処からか非常に微かに、嬢よ、華藻よと呼ぶ声が聞こえた。妾は答えようとしたが答える事が出来ず、目を開こうとしても開くことが出来ない。

 その中に又も、
 「華藻よ。」
との声が聞こえた。妾は漸く目を見開いて好く見ると、目の前にあるのはこれ、村上達雄の顔であった。妾は唯驚き、唯恐れ、更には言うに言われない嬉しさの心さえ胸の奥庭から浮かんで来ようとする。妾は既にあの世の人となった。ここは世に言う冥府(あのよ)では無いのか。妾は何時の間にか命が尽きて冥土に入り、村上に追いついたものと見える。言葉も無く顔と顔をとを眺め合うだけだったが、自然に迫ってくる涙と共に、妾は初めて声を発し、

 「オオ、村上か、ここはもう天国か。でもこの涙は実の涙。この世か、彼(あ)の世か。」
と問うのさえも虫の息のみ。村上は非常に悲しい声で、
 「嬢よ。ここは天国ではありません。二人とも生きています。」
 (妾)「二人とも生きて、でも貴方は泥の底で死んだのではありませんか。」
 (村)「イヤ、死にはしない。神の助けか、死ぬところを助かってここにいる。」

 アア読者よ。夢か誠か、こことは何処だろう。よもやこの世界では在るはずが無い。

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