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妾(わらは)の罪

黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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  妾(わらは)の罪    涙香小史 訳   トシ 口語訳

                 第二十九

 読者よ。村上は何ゆえ来ないのだろう。十時を過ぎ、十二時を過ぎ、ついに翌朝まで待ち明かしたけれど影さえ見せない。妾(わらわ)の病気は次第に好くなって来ているので、医者は見回りにに来なくても別段の差し障りはないけれど、村上の顔の見られないのは命をとられるのより辛い。朝の十時に至り、妾は耐えかねたので、看護婦に頼んで、村上を迎いに遣ったところ、しばらくして看護婦は転がるように帰って来た。
 「吉木さんは昨日から居なくなってしまいました。何処へ行ったのかは行方が一向に分からなとのことで、院長様も大層心配しているところです。」

 妾はほとんどベッドから飛び降りんばかりに打ち驚き、
 「エエ、あの人が居なくなった。それはまあどうしたことで。」
 (婦)サア、誰もその訳は知らないと言います。昨日の朝からその姿が見えないのを誰も気が付いていましたが、今に来るだろうと思って、尋ねもしないで置いたそうです。ところが昨夜も今朝も見えないから院長様がその部屋に行って確かめると、院長様に宛てて今までのお礼を言い、少し訳があって身を隠すからと言う手紙が残してあったと言って院長様がその手紙を私にもお見せになりました。

 (妾)ヘエ、院長様にばかり。その他に手紙はなかったの。
 (婦)ナニ、ありますものか。あの方はほんのこの間ここへ来て、まだ他に親しい者もないのですもの。院長様のお話では、何処から来たのか、その生まれ所も分からないが、この病院に入れたのは裁判所にいる予審判事に頼まれたため。これからその判事に知らせてやるとの事でした。
 (妾)でも他に何の手紙も残さないとは納得が出来ない。
 (婦)ナニ貴方、誰も親しい者がいない方が如何して手紙など残しますものか。

 看護婦は村上と妾の間を知らないので、この様に言うのももっともだが、妾に挨拶もせず、立ち去るはずはない。妾はどう考えても合点が行かない。何ゆえ身を隠したのか。昨朝から見えないといえば、一昨夜のうちに逃げたのに違いない。一昨夜は初めて妾と巡り会った当夜だから、村上、もし妾を愛しているなら妾の為に踏み止まるはずなのに。アア、妾は村上に捨てられたか。村上、既に妾が身に愛想を尽かしたのか。愛想を尽かすほどなら何ゆえ妾に薬を与え、厚く妾を介抱して、妾の命を取り留めたのだ。生きながらえて、この上、憂き目を見せるためか。それでは余りに情けない。

 読者よ。妾は実に身を切られるよりも辛い。ベッドの上に泣き伏したまま顔さえ上げる事が出来ない。せめて病が重かったらこの悲しみに又も正気を失うだろうに、なまじ病が治りかけているため悲しめども心乱さず。ありありと噛み分けて泣くその辛さ。妾はこのまま絶え入りたいと思うばかり。看護婦は妾の泣く仔細を知らないので、
 「貴方何をそのようにお泣なされます。それでは体に障りますから。」
と様々に慰めてくれたが、午後の二時過ぎ頃となり、涙も尽きて泣き止んだ。

 この時看護婦は外に出て、何やら手紙の様なものを手に持って帰って来た。
 「ただ今、玄関にある状箱の中にこの様なものが投げ込んでありました。第三号室の病女へと宛ててあるからは貴方へ来た手紙だろうと思います。」
と言いながら差し出すのを妾は受け取り、先ずその面封を見ると、差出人の名前はないけれど、確かに村上の筆癖である。何処から送って来たのか、郵便局の消印がないのは、きっと村上がこの病院を出る時に投げ込んで行ったものの、他に受け取る人がないので今迄そのままに残っていたものに違いない。妾は轟く胸を押し鎮め、封を切って読み下した。その文、

 「嬢よ、私はこのまま立ち去ろうと思いましたが、未練らしくここに一筆書き残します。未練ではありません。私の恨みを告げるためです。」
 恨みとは何事だ。妾の為に池に落ちたのをまだ執念深くも恨んでいるのか。
 「嬢よ、私はここで御身に会うとは実に思いもよらなかった事です。私は新聞を見て御身はきっとベルギーに逃げて行ったのだろうと思っていたのに、先日院長の命を受け、監獄を見回った時、貴方がただ一人、牢の中に在るのを見て夢かとばかり驚きましたが、私は貴方に知らせないで帰りました。後で聞くと、貴方は深谷賢之助と言う者の妻となり、この地に来て、ある宿に潜むうち、夫が寝静まるのを伺い待ち、夫の身に石油を注ぎ鬼鬼しくも焼き殺したとのこと。」

 妾はここまで読んで、身震いし、思わず辺りを見回すと、ありがたい事に看護婦は何処かに行って見えなかった。
 「深谷賢之助とは何者かは知らないが、きっと古山男爵の事でしょう。貴方が悪しき心があって彼を殺したのか、或いは過って殺したのかは知らないが、貴方は彼の池の傍で私と誓った事を忘れたのか。私の他に夫を持たないと、キスを以って固めた生涯の約束を忘れ、早や古山の妻となるとは、実に御身を見損なった。しかし、事を荒立てるべき時ではないので、私は重ねて恨みを述べる時もあるだろうと、一度は帰ったが、」

 さては、村上、妾を全く古山の妻と思ったか。そう思えば恨むのも道理。
 「まだ気になるままに、その翌日の夜、引き返して戸の外から覗き見をしたところ、貴方は泣きながら手紙を認め、そして祈り、かつ嘆き、宛も狂人かと思われるほどに狂っていた。」
 そうすると、彼の時、窓の外から村上の顔が見えたのは心の迷いではなかったのか。

 「私は熱病の起こり際ではないかと見て取ったので、一時間を経て、又行って見たたところ、果たして貴方は神経熱病に罹り、全く前後夢中の人となっていた。私は貴方を助ける筈はない。一度貴方の為に池の底まで突き落とされ、殺されたのも同様な身の上なので、このまま貴方を見殺しにしても、心に恥じるところはないが、この身が医者の片割れであるからには助けないわけにも行かず、貴方の命を取り止めたうえ、私の心の恨みをも告げ知らせ、その上で生涯の別れをしようと、未練にも貴方を救う事になったのです。

 それから色々な手立てを尽くし、この病院に連れて来て、出来るだけの手を尽くしたところ、その甲斐あって先ずあなたの命だけは取り留めました。華藻よ。貴方は既に私を池の底に付き落としたときからして、私とは全く他人です。この世とあの世を隔てた身の上です。共に同じ土地に住むことは出来ません。私はこれからこの土地を立ち去ります。だが言い聞かす事があります。それゆえこの手紙を書き残します。貴方は終わりまで読んで私の心を知りなさい。」

 アア、村上は全く妾が悪しき心があって突き落としたと思っているのか。これからどの様な事が記してあるのだろう。

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