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妾(わらは)の罪

黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.1.20

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  妾(わらは)の罪    涙香小史 訳   トシ 口語訳

                 第四十

 読者よ、唯一夜の取調べで早や予審が終わりと言って、妾(わらわ)は未決監に入れられた。判事に逢ったら十分に言い開きをしようと思っていたのに、思う半分も言い開くことが出来なかった。脆(もろ)くも証拠に説き伏せられ、言い開きの道は絶たれてしまった。この上村上を捕らえて来たならば、再び呼び出すと言われても、村上さえ妾を恨み、妾に悪しき感情を持ってるので、突き落としたものと思っているからには、この上彼を捕らえて来ても、妾の無罪が分かるはずも無く、返って証拠の上に証拠を加えるだけの事である。

 自ら罪を犯していないのに、どうしてこの様に証拠が現れて来たのだろう。罪を犯していないと言うのは我が迷いで、実は犯した罪を忘れたのだろうか。礼野判事が言うようにまだ神経熱病が十分に治っていない時だったので、自ら村上をも突き落とし、又洲崎嬢をも突き落としながら、それを全く忘れたものか。如何に病の為だとは言い、こうも忘れることはない。だからと言って自ら突き落としたもので無いならば、手先のボタンを握り去られるはずは無い。これほど不思議なことは無い。

 妾は唯疑い疑って夜明け頃まで眠りもせずに居たが、そのうちに朝からの疲れが出たと見え、何時しかうとうととまどろんだ。まどろんで目を覚ますと早や翌日の十時で、牢番の差し入れた弁当が窓の内にあった。妾は味も無い牢屋の物を食べるよりは脾を乾して飢え死にしよう。世に殺人嬢と迄言われた身が、飢え死にしても誰が残念がるだろうと、ただ冷や水に口を漱(すす)いだだけ。弁当は手にさえも取らずやがて十二時を過ぎ、一時にも近いだろうと思う頃、牢番と覚しき老女が来た。

 「サア、差し入れ物が来ましたよ。」
と何やら紙に包んだ箱のような物を置いて去った。アア、差し入れ物、誰が差し入れてくれたのだろう。サレスの牢に居た時は誰一人差し入れを送ってくる者は居なかったのに、流石は生まれ故郷のことなので、妾を憐れむ人が居るのは懐かしいとその箱の方に一足進んだが、思えば又情けない。妾が捕らわれて帰ったことは、早や世の中の噂となり、知人の耳に入ったのだろうか。

 「この上の恥を晒すな」
とは父上の戒めであるが、恥を雪(そそ)ごうとして、本名まで打ち明けた上、この様に捕らわれ帰りながら、その恥を雪ぐことが出来なくて、早くも世間に噂されるのは、恥の上に恥を塗ることだ。今頃は古池華藻の名が新聞にも書きたてられ、父の耳にも入った事だろう。父の立腹はどれほどだろうと妾は泣きながら床の上に倒れようとしたが、この時フト目に留まったのは、今差し入れた箱の面に唯一字記した「父」の字である。

 読者よ、これを差し入れたのは妾の父だったのか。この不孝者を怒りもせず、まだ慈しんで品物まで送って下さるとは、父でなくては誰が又妾を思ってくれるだろう。その深い情けに背き、身は捕らわれ数に入り、明日にも死刑に処せられる。今日の日まで老いの心を悩ませる不幸の罪は、世に疑われる人殺しの罪よりももっと重い。彼の罪は逃れても、この罪はどうして逃れられようかと妾その箱を取り上げて唯さめざめと打ち泣くだけ。

 妾は泣き尽くして起き直り、彼の箱を開いてみると、中はこれ妾が日頃好物にしていたビスケットであった。たった今も妾は牢屋の弁当を味なく思い、飢え死にしようとも食べないと言ったのに、そうだろうと察して贈って寄越したものであるか。この厚い恩に対しても妾は生き永らえなければならない。

 この菓子に命を繋ぎ、今一度我が罪を言い開き、古池華藻は世の人に噂されるほどの毒婦ではないことを知らせ、父の心を休めなければならない。この様に思うと、心さえ引き立って、今迄泣き沈んでいた我が愚痴が恥ずかしい。アア、愚痴だった。愚痴だった。たとえ首絞め台に登るまでも、再び涙をこぼさない様にしよう。殺されるなら潔く殺されよう。身に覚えのない罪ならば死んでも心は咎めない。

 百年の後に至るも、古池華藻が無実の罪で殺された事が分かる時が来るかもしれない。その時こそはわが魂は墓の下で安堵するだけ。誤り多いこの世の裁判は嘆くにも足らない。恐れるにも足りない。大胆に心を据え、死ぬ間際まで大胆に言い開こうと自ら我が心を励まして、これからはビスケットと水を飲食し、心安く日を暮らしたが、昨夜の眠りが足りなかったためか、この夜はは朝まで夢も見ずに眠り通した。この翌日の朝十時頃のことであるが、又も牢番の老女がが来て、
 「囚人よ、面会人があります。」
と伝えて去った。

 妾に面会しようとは誰だろう。誰にもせよ、見苦しく憂いに沈む様子を見せ、華藻は心に罪があるため身なりまで力なさそうに見えたなどと言われるのは辛いので、妾は顔を拭き、身をつくろい、静かに白木の食台に向かったまま泰然と控えて居たが、やがて外から入り口の戸を開く音が聞こえ、入って来たのは年の頃七十にも近いと思われる病みほうけて腰さえも延びない老人である。小使いともおぼしき男の肩にすがりよろよろと歩んで来て、妾の前に踏み止まり、小使いの当てがう腰掛に腰を下ろしたが、妾はこの老病人のの顔を見て我知らず、
 「アレー」
と驚いた。

 読者よ、この老病人は誰あろう、妾の父であった。妾が家を出てから今日までは未だ長い月日も経ってたっていないのに、父の様子の変わったのには実に別人かと怪しまれるほどだ。妾の父は年既に老い足りとは言え、日頃その身が達者なのを人に誇り、頭こそ禿げてはいたが、杖を突かず眼鏡をかけないと何時も自慢にしていたほどなのに、その頃の面影は今は何処にある。この所に来るのさえ小使いの肩に助けられるほどなので、一歩たりとも一人で歩くことは難しいだろう。

 父はなぜこれほどまでに衰えたのだろう。先に礼野先生から妾の為に病気になったと聞いたが、さては病のためであるか。病とは言え妾の為である。妾は唯あきれて空しくその顔を眺めるうち、迫ってくる涙を止めることが出来ず、たちまちに声を放って泣き出した。

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