warawa48
妾(わらは)の罪
黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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妾(わらは)の罪 涙香小史 訳 トシ 口語訳
第四十八
この様にしているうちに裁判所から呼び出しの使いが来たので、父は先に立ち、下僕(しもべ)に連れられてここを去り、妾(わらわ)は弁護人大鳥と共に小使を従えて廊下に出た。牢の出口から裁判所に至るまでは、凡そ3丁(327m)余もあるが、両方とも同じ構内にあるので、一目に触れるところには出ない。広大な建物の外に沿って鉄の柵をを巡らした石の廊下になっており、廊下が尽きる所に裁判所がある。
漸(ようや)くその入り口に着いてみると、何処から漏れるとも無く、風が梢を渡る様に、騒々しい声が漏れて聞こえる。これは傍聴人が押し合っている音に違いない。戸を開いて内に入ると、薄暗い控え所があり、これを通り過ぎて、又も向こうの端にある戸を開くと、その内は法廷である。妾は唯一足法廷に入ると、一斉に傍聴人がどよめく声に、宛(あたか)も耳を塞がれたようだった。見渡す限り、唯人の頭だけ。後で聞くと、係りの役人によって前から傍聴人で込み合うのを予想し、三個の法廷を一つにして開け放ち、、凡そ五千人の人が入ったと言う。
妾はこの大勢の声を聞き、大勢の頭を見て一時に逆上して、顔までも火より熱い。きっと日頃親しくしていた紳士淑女もその中に居る事だろうとは思ったが、眼がくらんで見分けが付かない。臨終の際まで笑顔を見せて、流石は貴族の家に育った健気さよと、ほめられたい心は何処へ行ってしまったのだろう。我が足が地に着いているのか、空に有るのかそれさえ覚えていない。
案内者の弁護人に片手づつ引き立てられたまま、夢のような気分で裁判官の前に据えられた。判事がなにやら言ったようであったが、その声も耳に入らず、我が声か人の声か、唯半鐘の中に頭を入れ、四方から叩かれる思いがするだけ。これではいけないと目を閉じて、頭を垂れ、我が心を押し静めるうちに、四方が次第に静かになり、妾の罪状を読み上げる非常にものすごい書記の声が耳に入った。
初めは何事を言ったのか知らないが、終わりのほうは少しばかり、
「この事実により被告古池華藻嬢をもって二重に殺人罪を犯した者と認め、公判に付するものなり。」
と聞き取った。この時誰かが妾の肩に手を置いたので、妾は初めて顔を上げると、弁護人大鳥が冷水を満々と盛ったコップを妾に与えようとする所であった。妾は作法にも構い無く受け取って、一息に飲み干した。
これで少し人心地が付いたので、先ず身の回りを見渡すと、判事は年ほとんど五十も過ぎたくらいの柔和な中にも威風がある。端然と構えて妾の前に座っている。その右には前から聞く検察官であろう。検察官と判事の間に斜めに席を構えるのは書記であろう。判事の左手に当たり少し退いて居並ぶ十二人の面々はいずれも見覚えのある紳士である。これが妾に罪を定めようとして呼び出された陪審員であろう。
判事は徐(おもむろ)に妾に向かって唯今書記の読み聞かせたとおり、被告は八月二日の夜、殺意を以って洲崎嬢を池に落として死に至らしめ、続いて九月七日の夜、サレスの宿屋に於いて、古山男爵を焼き殺したという殺人罪の嫌疑を二重に受け、当公判に付せられるものである。先ず前の件より審問を始めるが、愈々洲崎嬢を突き落としたのに相違ないか。
ここに至って満場は寂として声なく、無人の郷に入る如し。妾も心がやや落ち着き、前から弁護人により教えられた返事の筋道をも大方は思い出したたので、なるだけ大胆に判事を見詰めて、
「イイエ、嬢を突き落としは致しません。嬢が自ら落ちたのです。」
この時検察官はつと立って、判事に向かい、
「裁判長閣下に申します。予審調書を見るに、被告は初め、予審判事に向かい、全く覚えが無いと答え、後には貴方は神経熱病のため夢中になって突き落としたのでしょうとの問いに対して、「ハイ、そうかもしれません。」と答えています。よって当時被告を治療した医者の説を一応聞きたいと思います。既に証人ととしてその医者をも呼び出してありますから、被告を審問なさる前に、私から一言医者に問うて置く事があります。」
と請う。
判事はこの請いに従い、先ず医者を呼び入れさせた。検察官は判事の許しを得て、これに向かい、八月二日の妾の容態を問う。医者は偽りを言わないとの誓いを立て、七月の中旬から治療を加えましたが、同月の末に至り全快いたしました。
(検)八月二日には心も普段どおりであったと言われるが。
(医者)ハイ、普段の通りでした。
検察官は医者を退かせ、重ねて判事に向かい、
「当被告の予審はある点に於いてやや不完全に見えると言う人があるかも知れません。」
と言いながら、ジロり弁護人を睨んだが、
「既にサレスの予審廷の調べもあり、双方突合せれば、漏れも無く分かっております。然るに、唯今被告の発した一言、即ち洲崎嬢を落としはしない、嬢が自ら落ちたと言い切るのは双方の予審廷にて被告が一度も言い立てた事のない言葉です。良くご注意願います。」
と言い捨てて席に戻った。
弁護人大鳥も続いて立ち、
「唯今検察官自ら予審のことを弁護され、暗に予防線を張りましたが、検察官のお積りでは、事により、予審のし直しでも請求なさろうと仰るのですか。」
(検)それは答弁の限りでは有りませんが、当官は双方の予審を合わせればきわめて綿密に調べが届いていると言うのです。双方の予審で申し立てた事のない事柄を被告が今となって初めて言い立てるから、一言の注意を引いただけです。
読者よ、検察官は早や、妾が弁護人から入れ知恵をされた事と見て取ったようだ。
(大)予審で言い漏らした事を公判廷で言い始めるのはよくあることです。特に被告は極めて心の弱い少女ですので、なるべくは折角言いかけている言葉の先を折らないように願います。
(検)事実の大抵は既に罪状に載っていますから、判事長に於いて直ぐに証拠から尋問される事を願います。
判事はこの言葉に従った様に、直ぐにテーブルの上にある白い布を取り上げて、その下から彼のボタンを取り出し、
「この品に覚えがあるか。」
と妾の前に突き出した。
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