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妾(わらは)の罪

黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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  妾(わらは)の罪    涙香小史 訳   トシ 口語訳

                 第五十一

 妾(わらわ)の言い立ては実に無理である。妾自ら危ぶむほどなので、一同が信じないような面持ちを示すのも無理は無い。しかし大鳥弁護人はこの言い立てを何処までも押し通そうとする様に、妾の言い終わるのを待って、直ちに立ち上がり、

 「裁判官閣下よ、被告の言い立てはいかにも不思議に聞こえます。予審廷では更に洲崎嬢のことを覚えて居ない、知らないと申し立て、今は又嬢は突き倒されて倒れるはずみに、嬢が自分で落ちた事を覚えていると言い立てます。前後言葉が揃わないように聞こえます。検察官がわざわざ起立して閣下の注意を促したのも無理はありません。この様に申す弁護人すらも初めは十分に疑いを入れ、もしも被告がまことしやかに作り設けたものではないかと色々研究をしましたが、漸く事の真実という言う事が分かりました。

 もしそれを疑うならば被告が当時の健康を考え合わすのが一番の近道です。被告はその前より神経熱病で漸く床を離れたばかりの所です。その心、その記憶力ともに十分健全ととは言われません。健全でない被告が村上が池に落ちたのを見たその驚きは、どの様でありましたでしょう。驚き極まって病気再発の兆候を現したことは既に争われない事実であります。サア、病気が既に再発の兆候を現した後に当たり、洲崎嬢の一条があったことですので、被告が今迄そのことを忘れていたのは決して怪しむに足りません。これが世に言う胴忘れというものです。幾らでも例のあることです。」
と言い放って席に着いた。検察官はすかさず立って、

 「弁護人は被告の心と記憶力が十分でなかったと言い立てますが、彼は何の証拠があってこの様な事を言うのでしょう。既に先刻医師の証言で被告はその時病気は全く回復していたと申します。少しも不十分なところは無かったのです。胴忘れなどとは甚だしい牽強(こじつけ)説であります。

 (大)牽強(こじつけ)か牽強でないかは今一度医師の呼び出しを願います。もとより彼の夜は病気は全く回復していましたけれども、村上が落ちるのを見て、再発の兆候を現したのです。即ち健康不充分なために忘れたのではなく再発の兆候の為に忘れたのです。私も初めは疑いましたが、医師の説を聞き、神経熱病には全く胴忘れすることがあると言われて、初めて信ずることになりました。被告が予審廷で唯覚えていない、知らないと言い、その後で思い出したと言うのは実に最も至極の事です。然るに検察官がまだ疑うにおいては再び医師の証言を求めなければなりません。

 (検)弁護人の言うところは別に新しい説でもないので医師の証言には及びません。一歩を譲り神経熱病の為に胴忘れをしたと仮定して、一度それ程忘れたものをどうして被告は思い出しました。胴忘れをしたものが一通りの手段で思い出すはずはありません。被告自身の言い立てでは弁護人からこうではないか、アアではないかと問われるうちにフト思い出したと有りますが、フト思い出すとは実に容易な思い出し方であります。そのようにフト思い出す事が出来るものなら何度も彼の予審の席に於いて、とっくにフト思い出しているはずであります。被告が弁護人に問われたとは如何なる事を問われました。如何なる問いの為にフト思い出したのですか。裁判官に於いて問われた事柄を充分にお問いなさる事を願います。」

 裁判官はこの願いに従って、妾に向かい、
 「サア、被告弁護人から何を問われて思い出したのか、それを詳しく申し立てるように。」
 読者よ、妾はこの問いに逢って、ハタと詰まった。さしもの大鳥だが前もってこの問いに逢う事を察していなかったと見え、妾にその返事を教えて置かなかった。それとも教えて置いたのを妾がここに至っ忘れたのか。アア、妾は何と答えてよいか分からない。妾がこの様に当惑する様子を大鳥は見るに見かねたのか、つっと立ち上がって、裁判長に呼びかけたが、裁判長はここが大事と見て取ったように、大鳥に発言を許るさず、

 「サア、被告、返事をしないか。サア、胴忘れしていた事を何と問われて思い出した。」
 (妾)ハイ、それは様々な事を問われましたので。
 (判)様々では分からない。明らかに申せ。
 (妾)ハイ、それはあの左様です。もしや村上の落ちた後で洲崎嬢に逢いはしなかったかとこの様に問われまして、色々考えましたが、そのうちにフト。
 (判)フム、その様な事は予審廷で何度も問われているが、それだのに大鳥に問われるまでは思い出さずにいたというのか。

 (妾)ハイ、左様で、
と答える妾の苦しさを察せよ。その答え、果たして満足なるや否や。妾は自ら知る方法は無く、密かに大鳥の様子を伺うと、大鳥は今迄見たことも無い程の真面目な顔を作って控えるばかり。好しとも悪しとも色には現さないが、ほとんど弁護の言葉無しと見える。もし言葉があれば、立ち上がって何とか言い繕わないはずはない。検察官は早くも勝利の色を顔に浮かべて立ち、

 「裁判長閣下、再び医師の呼び出しを願います。被告が弁護人大鳥から洲崎嬢に会った覚えはないかととこう問われただけの事で、直ぐに思い出す事のあるものか、ないものか、その辺を篤(とく)と訪ねたいと思います。
 判事はこの請いを入れ、再び医師を呼び入れた。医師の返事は妾の運命が定まるところだ。この医師はいかなる言い立てをなすだろうと妾は手に汗を握って聞いていたが、医師はやがて検察官の問いに答え、

 「左様でございます。私が被告を診察したのは八月二日の朝で、その時は充分病は治っていましたゆえ、胴忘れをする筈はありません。そうは言っても何か非常に驚く時は再発する事も有ります。被告は全く再発しました。再発して後のことは随分胴忘れもいたします。」

 これまでは先ず妾の為に有利である。
 「しかしながら一度胴忘れしたことを再び思い出すのは容易な事ではありません。これには医学者の定説で二つの場合が有ります。第一は病気の直った後、その場所に行って初めて思い出します。もしその場所に行っても思い出さないものならば、再び同じ病気にかかった時思い出します。これが第一の場合です、次の第二の場合というのは、この頃、某大医師の発見した真理で、この真理が現れるまでは誰も第二の場合を知らず、その場所へ行っても思い出さない事柄は到底思い出す事が無いと見なしていました。然るに、実際はそうではありません。再び同じ病気にかかればその罹っている間だけ思い出します。その代わり病が治れば又忘れます。」

この異様な申し立てを判事は更に念を押し、
 「それでは詰まり病気が治ってもその場所に臨まなければ思い出さないのじゃな。」
 (医)ハイ、真の胴忘れなら決して思い出しません。
 読者よ、この答えにて妾は全く失望してしまった。巧みに企んで工夫した大鳥の教えもここに至って全く無効なのを見て取った。しかし判事はなお思う仔細が有ると見え、又問い返し、

 「そうすると真の胴忘れとはどういうものじゃ。」
と問いかけた。

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