warawa58
妾(わらは)の罪
黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2013.2.7
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(画面設定が1024×768の時、拡大率125%が見やすい)
妾(わらは)の罪 涙香小史 訳 トシ 口語訳
第五十八
同じく一つのボタンである。検察官はこれを有罪の証拠として妾を疑い、村上達雄はこれを無罪の証拠として妾を信じている。このボタンが何故無罪の証拠となるのだろう。妾までも怪しむほどなので検察官も、裁判官も陪審員もその書記も、これはと一同首を上げた。
(判)何故にこのボタンが被告の無罪と言う証拠になるか。
(村)これは被告の手先から握り取った物では有りません。外の人の手先から握り取りました。
(判)ナニ、外の人とは如何言う訳じゃ。
(村)私と被告と共に池の傍で話している時、木の陰に隠れて立ち聞きをしている人がありました。生憎、当夜は一寸先も分からないような真の闇でありましたので、被告も私も、傍に人が居ることは知らず、唯二人の積りで話していましたが、実はその前から木の陰に忍ぶ曲者があって、その者が私を突き落とした次第です。丁度被告がいけませんよと言って、私を払い退けた時を計り、曲者が木の陰から手を出して突きましたので、私は全く被告に突かれた事と思い、被告もまた自分の払った手先のため、私が足を踏み外したことと思っています。
(判)外に曲者が居た事が如何して分かる。
(村)それは段々と調べて分かりました。私は被告の書置きを見ました時に、全く被告に罪は無く、真の曲者は外にあるということを見て取り、直ぐに訴え出ようかと思いましたが、真の曲者を見出さないうちに訴え出たところで何の役にも立たないと存じ、今日まで唯一人で調査をしておりました。調査して漸く事実も分かり、証人もありましたので、この様に自首して出ました。
ここにあるF字のボタンも即ちその曲者の手先から取ったのです。憐れむべき洲崎嬢の死骸が握っていた同じボタンもやはりその曲者から取ったのです。詰まりその曲者が私をも洲崎嬢をも突き落としましたので、これなる被告は毛頭関係の無い事です。罪は全くその曲者にあるのです。なお事の本末をお疑いなされるならならば、私の他にその曲者を知り、その曲者の手先に使われた婦人が有ます。その婦人が今は充分に後悔して被告のために証人となり、事の本末を言い立てようと決心しています。どうかその婦人をお呼び出しを願います。その婦人は既にこの法廷に入り込みましたが、唯手続きが違ったため、不孝にも狼藉者と見なされて一言の言い立ても果たせずに法廷の外に追い出されました。その婦人を呼び出せば、曲者の仕業と被告の無罪が悉く分かります。
さては先程妾を無罪と言い、誠の罪人は外にあると叫びたてた無名婦人がその曲者の手先だったのか。手先であったが後悔の余り名乗り出たものだったか。
(判)フム、その方の申し立ては今迄の何回かの取調べと全く違っているけれど、次第によっては採用して、その婦人を呼び出さないものでもない。したが先ずその方が如何して調査を成し遂げる事が出来たのか、如何してその婦人を証人とするまでに立ち到ったのか、その次第を申し立てよ。
(村)別に次第と言ううほどのものは有りませんが、初め私は被告の書置きを見て、堅く被告の無罪を信じると同時に、このボタンに不審を持ちました。被告が真に無罪ならば、このボタンは誰の品か。外に必ず持ち主があるのに違いなく、その持ち主が真の曲者に違いないと、この様に疑いを起こしまして、それなら真の曲者は誰かと何度も書置きを読み返し、更に被告と我が身の上の事などを考えますと、これが怪しい奴と心に浮かんだ者が一人あります。それは外でもない、しばらく被告に使われていた腰元のお房という者です。
アア、お房と聞いて妾は思い出した。彼の時、妾はお房と言う新参の腰元を使っていた。お房は妾から村上に送った打ち合わせの手紙を盗み、それを古山男爵に売り渡した。この様な痴れ物のお房ならば、成るほど村上が疑うのも無理は無いが、だからと言ってただ一時雇っただけで別に何の恨みも無い彼のお房がこの様に深くこのことに関わっているとは思いも寄らなかったことなので、妾はもとより探偵に至までお房を疑う者は居なかった。
村上は言葉を継いで、当時古池家に出入りした人々はいずれも一廉の紳士とか貴婦人とかで、皆その身元が分かっていますが、一人素性の分からないのはお房であります。被告の書置きにお房が不正直な事を致したように書いてありましたので、差し当たりお房の他に疑うべき者は無いと、兎に角もお房を調べる事にして、私は直ぐその居場所を捜し始めました。第一に先ず古池家に奉公人を周旋する口入会社に行き、その帳簿を調べますと、お房は今迄某伯爵、某男爵などなどいずれも上級の社会の家に腰元として住み込み、或いは二年、或いは三年と渡り渡って、古池家に雇われたものであります。
依って及ぶだけの手を尽くして、今までの奉公先につきそれぞれ問い合わせてみると、これと言う悪事は無く、唯心の弱い女で、他人に折り入って頼まれれば、何事でも否と言うことが出来ない気質です。悪いと知りながら人に頼まれたためにそのことに加担するというような事がたびたび会ったと言いますので、私は益々力を得て、唯今の居所を捜しますと、口入会社でも知らないと言い、そのほか処々を捜しても更に行方が分かりませんので、これは必ず古池事件について我が身に何か暗いところがあるので、そのほとぼりが冷めるまでしばらく隠れているのだろうと、それから私立探偵に頼んでその行方を捜させまして、終にある所の下等宿に潜んでいる事が分かりました。依って私は直ぐその宿に訪ねて行きました。
a:919 t:2 y:0