鉄仮面128
鉄仮面
ボアゴベ 著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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第百十八回
セント・マールスが戸を開き終わって、さあ、「出ろ」と声を掛けると内側から先ず片手を出し、これを杖にして身を屈めて力なさそうに出て来たのは、これ、即ち二十何年か、空の色さえ見たことが無い憐れむべき、鉄仮面だった。彼は朝から今までせまい乗り物の中に座っていたので、足もなかなか伸びないと見えて、両膝を撫でさすりながら、そろりそろりと体を延ばした。
この様子をじっくりと見てみると、かってピネロルの砦で姿を現してから既に十数年過ぎている事なので、体も一層やせ衰えほとんど歩くことも出来ないのではないかと思われた。セント・マールスはその手を取って、
「お前はまるで意気地が無いなあ、」
「はい、日に日に老いぼれるばかりです。」
「昔は魔が淵も渡ったくせに、しっかりしろ。」
「はい、あの頃の気力はもうとても有りません。」
体ばかりか精神までもこうも衰えるものか。元は国王を敵とし、大宰相と戦って、欧州全土を征服しようと迄思った事もあった、当時無双の豪傑も、今は冷酷な牢番の手にかかって、力の無いことは泥のようだった。誰がその身の零落をあわれまない者がいようか。そうは言っても彼の心の何処かに一片、人に優る気迫があるからこそ、二十六年もの長い拷問を耐え忍び、今もまだ鉄仮面の苦痛を受けながらコンド、チュウリン両侯爵の名を口外せず、命だけを長らえているのだ。
それでセント・マールスは彼の手を取り、窓の所に歩いて行って「どうだ、築山から木々の様子は、え、随分と広い贅沢な別荘だろう。」
鉄仮面は返事もせずに、しばらくただ夕暮れの空に点々と現れ始めた星の光を見て、深いため息をもらしながら「ええ、この様な美しい世の中も有るのに」、わが身一人はどうしてか、人生のほとんどを暗い穴の中に沈め、当てども無しに死ぬ日を数え待つだけの、はかない運命に落ちてしまったのだろう。
口にはそんなことは言わなかったが、心は言うよりも一層辛い思いだろう。セント・マールスは聞きとがめて、
「何だと、何を口の中でぶつぶつ言っている。この景色を誉めてくれ。」
「はい、まことに立派な別荘です。」と言う声さえ、涙に湿っていた。
「ただ立派と言うだけでなく、誰侯爵の別荘に似ているとか、優っているとか、その様なことをお前は知っているではないか。さあ、もう少しこちらに来て見ろ。」と言って手を引いたまま、もう一方へ振り向くと、何時の間に昇って来たのか、そちらに立っている兵士がいた。
セント・マールスはカッと怒り、雷より大きな声を出し、
「これ、コフスキー、誰の許しを得て昇ってきた。」
コフスキーと言う名を聞いて鉄仮面は非常に驚いた様にすぐにそちらの方を見て、体を震わせて、重くセント・マールスにもたれ掛かった。その様子はあたかも立つ足の力まで失ったようだった。
コフスキーはうやうやしく首を垂れ、
「はい、実は伺いたいことがありまして」
「どんな事があっても、俺の許しを得ずに上がって来てはならん。」
と叱りながらも鉄仮面の姿を見られたことを後悔するように、急いで乗り物の方に向い、よろよろと歩くのもままならない鉄仮面を引き立てて、力任せに押し丸めて乗り物の中に投げ込みながら、堅く戸を閉ざした。
鉄仮面が本当にアルモイス・モーリスならば、この様子で自分の腹心とも言うべきコフスキーがまだこの世に生きていて、自分を救い出すためにセント・マールスに仕えているのを知り、無くした気力も幾らか引き立つはずなのに、顔を合わせながらも鉄の仮面に隔てられ、顔の色さえ見せることが出来ず、言葉も交わさずに空しく引き分けられた、その無念さはどんなだったろう。セント・マールスはもちろんそれらの容赦はないので、乗り物の戸を閉めると直ちにコフスキーの所に走り来てその肩をつかみ、
「お前は鉄仮面をのぞきに来たな。」
コフスキーは少しもためらはず、
「え、鉄仮面とは? あの厄介な荷物ですか? 何であんな厄介な荷物をのぞきましょうか。今夜の寝ずの番を誰にするかその役割を伺いに来たのです。他の者は誰もこれも昼間の旅に疲れたと言って、しりごみをするような訳で、私の指図を聞きませんから、貴方に厳しく割り振って貰って、そのうえ叱って貰おうと思いまして。」と言葉たくみに言い逃れると、
セント・マールスは初めて疑いを解いたように、
「それにしても、これからは俺の許しを待たずに乗り物の側に来てはならんぞ。役割は後で決めてやるから、お前は引き下がってホルマノーをここへよこせ。」
コフスキーはかしこまって退きながらも腹の中で「おお、きゃつの疑いが解けて好かった。今疑われては今夜のブリカンベールの仕事が出来なくなる。危ないこと。危ないこと。」とつぶやいた。
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