鉄仮面14
鉄仮面
ボアゴベ 著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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第六回
誰と問われてナアローは、男爵アイスネーとは答えずに、「ハイ、彼は私の親友です。」とだけ答えた。
オリンプ夫人は、これだけの曖昧な返事に満足したのか、軽くうなずいてそのまま準備してあった部屋に入り、従者ヒリップを左に置き、やがて寝室から帰ってきた侍女ローレンザを右に座らせ、自分は二人の間に腰掛け「どうもどうも疲れました。」と言いながら、帽子と覆面をとると、漆のように黒い髪の毛は一時に乱れて肩に落ち、青白い顔の色と相まってものすごいほど美しかった。
そもそも、この夫人の父君である大宰相マザリンは誰もが知るとおりイタリアの出で、夫人はその血を受け継いでいるので、他国の女には類のない独特なすごみがあり、顔は少し面長で、目は深く、顎も少し出ている方だが、唇は堅くしまり、情にもろくて怒りに鋭く、心の奥が計り知れない容貌(ようぼう)をしている。夫人はナアローの準備したご馳走には見向きもせず、ただ、その冷たい目で、じっと、ローレンザの顔を眺め、さらにまた、ヒリップを見返り、穏やかならぬ顔つきで二人の様子を見比べていた。
ここで、先ず、ローレンザとヒリップの身の上を記しておくと、ローレンザはイタリアでは由緒の有る家の娘で、宮仕えにとパリーの朝廷に住み込んで働いていたのを、夫人が作法などを教え込むために、自分の手元に引き取って侍女にしている者だ。
ヒリップはその姓をトリーと言い、或る皇族の奉公人だったのを夫人が特に目をかけて、わざわざ自分の側に来てもらい、どこに行く時も連れ歩き、深く寵愛していると言うことだ。
夫人はローレンザとヒリップが時々目を見合わす様子を見て、非常に不快な思いをして、心の中で、「もうこのままにしてはおけぬ。もしもの間違いがあっては」とつぶやき、更に又、ナアローに向かって、「ナアローさん、私の従者はどこで寝かせます。」「イヤ、それぞれにもう部屋を与えましたが、ヒリップさんは私の部屋に、又、ローレンザさんは」と言いかけるのを「いや、ローレンザにはまだ用事があります。さあ、ローレンザや、寝室へ案内しておくれ。」
この命に従って、ローレンザは夫人の脱ぎ捨てた帽子、コート、その他を片手に持ち、片手に夫人を助け起こして、再びヒリップと目を見合わせて、二階へと上がって行くのを、ナアローを初めとして一同は、二階の寝室の入り口まで送って行き、そこで恭(うやうや)しく挨拶をして引き下がった。
荒武者、アイスネーはちらっと寝室の中をのぞき、あの白ベッドに目を注ぎ、「フム、ナアローの知恵で考え出したのは、あの白ベッドだな。わざわざフランスから取り寄せて、あれへ夫人を寝かすとすれば、どういうことになるのだろう。」とつぶやいたが、ローレンザと夫人は、これにかまわず、もう寝室に入り、中から戸を閉めて固くその鍵を下ろした。
そこで、夫人はすぐに暖炉の前に行き、備えの椅子に腰を下ろすと、ローレンザは着物などを片づけ終わって疲れたようにほっと息をはき、夫人の背後に来ながら、「オリンプ様、ご就寝なさいますならざっとおぐしを結びましょう。」夫人は顔に掛かる長い髪を振分けて、「イエ、私はまだ休みませんから。」「オヤ、オリンプ様は今朝早くからのご旅行に相当お疲れでしょうに。」夫人は容赦ない口調で「イエ、疲れてもこれからなお手紙を書かなければなりません。早く寝たいと言ったのは、実はそのためだったのです。」
ローレンザは、「オヤオヤ」と胸の中で驚き、ほとんど泣き声かと思われるようなため息をもらした。」「オオ、そなたはさぞ眠かろうに。」と夫人がその顔を見やると、ローレンザは両頬を赤くしながら、「ハイ、あまりに馬車が揺れましたので、いつもより疲れましたが、ナニ、あなた様のご用とあれば。」
「イエ、それには及びません。」「では、失礼して、下がってよろしゅうございますか。」
「下がってそなたはどこかに寝に行きたいのかい。」「ハイ、あのナアローさんに願って、この次の部屋に寝床の用意をしてもらいましょう。ご用の時はいつでも跳び起きて参ります。」
夫人は少し眉をひそめ、そばのテーブルについていた手を額に当てて、ちょっと考える様子だったが、「イエイエ、次の部屋に行かず、そのベッドでお休みなさいな。私は朝まで書き明かすつもりだから」「でも貴方様、私がこのベッドでは罰が当たります。」
夫人は少しじれた様子で、「私が許せば良いではないか。貴方はいつまで私の言葉に逆らいますか。」叱られてもまだ遠慮して「と言われましても、このような立派な。」と言って、当惑してベッドの方を見回すのを、「なに、立派でも一夜だけの用意だから気兼ねする事はない、さあ、お休み。」
今は返す言葉もなく、この言い付けに従ったために、どんなことになるかは、神ならぬ身には知るよしもなく、「アア、もったいない。」と遠慮しながら疲れた足を引きづり、「では、失礼します。」この一言を後に残し、おずおずとベッドに上がったが、10分と経たないうちにすぐ眠ってしまったように、呼吸が調子よくそろって聞こえてきた。何か夢でも見ているのだろうか。
残された夫人は、ただ一人椅子に腰を下ろして考えているが「アア、ほんとうに本当に、侍女の身がうらやましい。嫉妬と言う心の責め苦もまだ知らないので、人も恨まず、恨まれることも無いのだろう。それに引き代え、アア、もう思うまいーーー、とは思ってもーーー、振り捨てられた今までの苦しみも、この後の苦しみに比べてはーーー、こう言う中にも、月日と共に顔かたちは崩れるであろうし。」と言いかけてびくりと驚き、
「イヤイヤ、もう我ながら愛想が尽きる老い木の花。枯れしおれて居るかもしれない。」と言いつつ、姿見に立ち向かい。苦労の非常に多かった自分の顔を鏡に写して見ながら、「オホホ、目元とてまだまだ変わってはいない。何時だったか、ルイ王がたわむれに指の先に巻き付けて、濡れ羽色だと言われた時と髪のつやも同じなのに、変わってしまったのはただルイ王の心ばかりーーー、エエ、今はこっちの心も十九や二十の娘ではない。こんどこそ、ルイ王を足元にひれ伏させて、あのバリエールめにオホホホ。」
うち笑いながら、一歩一歩あるいて、後ろの椅子にまた腰を下ろし、再び思いに沈むうち、笑顔はいつしかまた曇ってきて、前にも増した恨みの色になった。「頼みになるのはバンダの夫、アルモイス・モーリスたった一人。あれとて便りをよこさないから、どこでどうしているやら。卑しい身から引き上げて、寵愛してやっているヒリップまでどうやら私を振り捨てて、侍女ローレンザと怪しいそぶり。
エエ、もうもう、我慢という我慢は尽きた。今すぐにヒリップを起こして、問いただして、はっきりさせなくては」と、椅子を蹴り返して立ち上がり、恨みに燃える血眼でキッと、遠くを見やると、この時非常に恐ろしい様子が目に入って来た。
それは何かと言うと、ローレンザの眠っている白ベッドが音もなく、そろり、そろりと両端から反り返り始め、ローレンザを巻き込み始めていたのだった。恨みにくらむ目といえども、この有様は見間違えるはずはないが、ただ余りに不思議な光景だったので、あきれかえってしまって、しばらくの間立ちすくんでしまった。
このまま捨てて置いたのでは、10分もしないうちに、ベッドは桶のようになり、ローレンザはその中に包み込まれて、押し殺されてしまうので、夫人はようやくそれに気づき、一切の恨みも悲しみもヒリップとのことも忘れて、ただ自然な良心からベッドに駆けつけて、眠っているローレンザの肩に手をかけ、「レンや、レンや」と呼び起こすと、ローレンザはなお夢見心地で、眠っている目を開きもしないで、寝顔の片頬に笑みを浮かべて、「うれしいわ、まあ、ヒリップさん」と寝言を言う。
この一言に夫人は毒虫にでも刺されたように「アッ」と驚いて飛び退いたが、見る見るうちに夫人の顔は、再び恨みに燃え上がるものすごい顔に、返ってしまった。
第6回終わり