鉄仮面16
鉄仮面
ボアゴベ 著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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第七回
寝言にまでも「ヒリップ」の名を言い「うれしいわ」とつぶやくからは、もはや疑う余地はない。侍女の身もかえりみず、今までの恩義にも気を止めず、私の最愛の男を盗んで罰が当たらないと思うかと、オリンプ夫人はみるみる目に血を注ぎ、非常に恨めしげに、歯をかみ鳴らして、立ちすくんだ。
その間にもあの恐るべき白ベッドはそろりそろりとローレンザを巻き込み、ローレンザの命はあと5分、3分、1分にも尽きようとするところまで迫って来たので、夫人はほとんど見るに耐えず、「オオ、恐ろしい」とうち叫び、両手に顔を隠したが、どんなに恨みが積み重なろうが、かわいい花の盛りの一少女を、見殺しにできようか。
少しの猶予もない最後の瞬間に来たのを見て、夫人は後悔し、「イヤイヤこのまま死なすことは出来ない。助けた上で、責め尋ねて、本当の事を白状させ、いよいよヒリップの心変わりと言う証拠を見つけなければ。」とつぶやき、それも終わらないうちに再び白ベッドに駆け寄ったが、この時はもはや後の祭りだった。
巻き上がった少しばかり開いた両端は、しっかりローレンザを巻き込み、あたかも、桶のようになり、空気の通うすき間もないような状態だったので、どうしようもなく、夫人は目をまばたきもせずに、ひたすらため息をつくばかりだった。
この時、天井の上に当たる三階の一室で誰か分からないが、そろそろと床を踏むような足音が聞こえてきた。その様子は、あたかも、寝そびれて、ベッドを出て部屋の中を行ったり来たりするのに似ていた。これは、もしかしたらヒリップではないだろうか。
彼はナアローが自分の部屋に寝せるということだったが、この家は三階の造りだから、他にナアローの部屋があるとは思えない。そうに違いない。三階が彼の部屋で、今歩いているのは確かにヒリップに違いない。ヒリップは何のために歩いているのだろう。
彼は来る途中で、今日は非常に疲れたようなことを言っていたので、寝そびれるようなことが有るはずがないのにと怪しんでいると、自然に夫人の胸に浮かぶのは又も忌まわしい疑いだった。
ええ、あの薄情な男め。ローレンザと忍び会う約束で今か今かとローレンザの来るのを待っているのだろう。待つなら待て。明け方まで待ち明かせ。二度と再びローレンザの顔など見られるものか。アア、これだけでもせめての腹いせだ、とたちまちにして怒り、たちまちにして恨む夫人の心中はほとんど麻のように乱れた。
少したって、足音はおさまったので、夫人の心も少し、鎮(しず)まって、今まで考える暇もなかったことまで、少しづつ考えられるようになった。それにしてもこの白ベッドは誰を殺そうとしてこの部屋に置いたのだろう。侍女ローレンザがこのベッドで寝ようなどとは誰も思うはずはないから、私を殺そうとしたことは間違いない。
そうすれば、親友と思っていたナアローも、私の敵に違いない。これにつけても思い出すのは、パリを出るとき、私の身の上が危ないと言い、腹臣の中に最も恐ろしい敵がいると、私を引き留めた、ラ・バイシンこそ私に残っている、ただ一人の友人だ。
ルイ王に振り捨てられて以来、彼こそはと心を許し、出来る限り可愛がっていたヒリップまで私に背くほどだから、他の者が頼りにならないことは、怪しむことではない。とは言え、こんなにも頼りない境遇に落ちてしまうとは、今の今まで思いもしなかったことだとさすがに気の強い夫人も、椅子の中に泣き沈み、立ち上がる気力もなくなったかと思わせるほどだった。
このまま夜を明かしては、どのような事になるか分からない。今にも、あのナアローがたくらみがうまくいったかどうかを見極めに入ってくるのは目に見えている。その時、ローレンザが死んだのを見たら、彼は自分の計画が私に見破られたのを知り、どんな事をするか分かったものではない。宵のうちに見たあの荒武者が彼の後ろにいたのも、万が一の用心のために違いない。
まさか、王族の肩書きのある私を捕らえて、乱暴にくびり殺すような事はしないだろうが、悪知恵の働く彼のことだから、又何か工夫をこらして、白ベッドの失敗を取り返そうとするのに違いない。何にしても、ここで時間を過ごすのは危険を招くようなものだから夜が明ける前に、逃げ去るほかはないと、夫人はようやく心に決めて椅子から立ち上がり、辺りを見回すと、ろうそくの火は燃え残って薄暗く、広い部屋はしんしんと物静かで、襟元からゾッと魔風に襲われる心地がした。
特に恐ろしいのはあの白ベッドだ。ローレンザを殺し終わって、初めのようにそろりそろりと音もなくその両端を元に戻し始め、今はローレンザの死骸を元のように現して、桶のように巻いた残酷な様子は痕跡も残していない。これは何と不思議な機械だろう。(訳者注:白ベッドの事は今でもフランスの公文書に残っており、その構造まで記しているものもあり、勿論疑う余地はない。)
夫人はこの様子を見ないようにしたが、目が自然とローレンザの死体に引きつけられるように見てしまい、他のものを見ることが出来なかった。可哀想にローレンザの死体は寝たときのままだが、死ぬときの苦しみは十分その顔に現れており、開いている目は恨めしげに夫人の顔をにらんでいるかと思えるほどだった。
この死体の側で一夜を明かすことは、男と言えども気味が悪くて
出来そうもないことなのに、ましてや女の身、特に幽霊の出る話しが盛んに行われていた頃(今から300年前)のことなので、夫人はその上イタリヤ人の性癖として、死体を恐れることが最もはなはだしかったので、今は一刻もこの部屋に留まることは出来なくて恐ろしさに我を忘れて、窓の戸を開き外を見ると、ここは地面から6m近くもあり、飛び降りることもできそうもなかった。
そうなれば、戸口から出る以外はないと、そのまま又戸口に来てみると、ここにも固く鍵がかかっていた。鍵はどこだと見回すうちに、窓から吹き込む風にろうそくの火が消えて、恐ろしい部屋の中は、地獄のような闇となった。
第7回終わり
つぎ八回はここから