鉄仮面19
鉄仮面
ボアゴベ 著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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2009.7.18
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第十回
奴ブリカンベールがオリンプ夫人を背負ったまま来た町外れの家と言うのは、宵にモーリスが荒武者アイスネーに刺された、あの居酒屋であることは読者のすでに察するところだと思う。ブリカンベールがまず戸を叩くと、中から主人が戸を開けて出迎えたが、雪も払わずに無造作に中に入って店中を見回しながら「コレ、主人、宵のけが人はどうされたか。」
主人はブリカンベールの背の荷物を、あやしげにながめながら「つれの方がひどくお嘆きの様子でしたので、早速ライソラ伯爵のお抱えのお医者様を迎えしてきて、それぞれ手当を尽くしましたがーーー」、「手当を尽くしたがそれからどうした。」「イヤ何分にも重傷でしたので、ごくごく静かに寝かして置かなければ、とても一命助からんとの御診察でした。
それで三階の客間へ担ぎ上げ、お連れの方が付ききりで介抱しておいでですが、朝まで何も知らずに眠るなら事によると治療が届くかも知れないが、もしそのうちに目を覚まして騒ぐようだと、とても助かる見込みはないと、よほど心配の様子でした。」ブリカンベールは心配げに「ヤレヤレ、それは困ったことをした。だが主人、三階の部屋が病人でふさがると、他にこの方を朝までお泊めする部屋はあるまいか。」
「部屋どころか、ベッドさえ有りません。」、「オヤオヤ、それでは俺が 一走りして、どこか宿屋を叩き起こし、よく頼み込んで来よう。その間この貴夫人に気を付けて」、と言いながら夫人を腰掛け台の上に下ろすと、夫人は非常に有難そうに「イヤ、ブリカンベールとやら、もう夜が明けるのも間もないだろう、朝になれば共の者も捜しに来ようし、こちらからも呼び寄せて、ここを立ち去る用意をするから、一夜をここで明かしてもくるしゅうない」と遠慮する言葉も来き終わらないうちに、ブリカンベールは立ち去ったので、夫人は黙って今宵のことを考えてみた。
重ねがさねの不幸はみなルーボアのする仕業で、特に味方の先鋒とするモーリスまで怪我を負わされたとは、ルーボアの手先はすでにくもの巣を張るように、くまなく張りめぐらされていることは間違いない。計画している事が失敗した訳ではないが、いずれにしろ用心が肝心だから、今夜この場所に連れてこられたのを幸いとしてバンダに会い、これらの心を伝えておこうとちょっとの間に決心し立ち上がって亭主に向かいバンダの部屋に案内せよと命じた。
亭主は困ったように頭を掻いたが、夫人の立派な服装と毅然とした面もちに肝をくじかれ、否を言う勇気もなく、いたずらに口の中で、お医者様から誰も三階に上げてはならぬと釘をさされているのに、もしこのためにけが人にもしものことがあっても私は知りませんぞ」とつぶやき、不承不精(ふしょうぶしょう)手にランプを持って言葉にしたがって案内した。
元々小さい家なので三階建てと言っても名前だけで、実は物置同様な天井裏へ粗末な造作をして二部屋にしたただけで、階段にしても夫人の足に踏み馴れている広い造りの物ではなく、両手でつかまりながらはい上るはしごの様な粗雑なつくりの階段なので、夫人は凍る足が踏み外すのを恐れながらやっとの思いで上に上ると、この音を聞きつけてバンダ嬢が何事かと怪しむように、手ランプをかざして敷居の上に現れた。
姿は男のつくりだが男のように胸の悩みを隠す度量を持ち合わせていないので、多くの悩みがすべて顔に現れて両方の頬には薄赤い血の色が浮かび、開いた目は、八方に配られて忙しく動いた。夫人は宿の主人が降りて行くのを待ってつかと側により「バンダ」と一声呼びかけると、バンダはひどく驚いたものの、眠っているけが人を驚かさないようにと言う気配りは一時も忘れていないので、ぐっと驚きを抑えて、片手を胸にしっかりと当て、騒ぐ胸の動悸を静めて、ドアを締めて、ささやく様な調子で「どうしてまあ、貴方様が」
「変わったところで会いましたね」と言いながら夫人は有りあわせの古箱に疲れた腰を下ろし「バンダ」「ハイ」「そなたの苦労は何もかも聞いて知りました。私もここに来るほどだから様々な苦労をしたが、それはさて置き、何よりも気にかかるのは手箱の事です。」手箱と聞いてバンダは再び、びっくりして目をはっと見開いたが、やがて何気ないふりをして「手箱とは何の手箱ですか」「これこれバンダ、貴方が夫の秘密を守り通そうとするのはもっともだが、貴方が預かっていることはモーリスから聞いてよく知っています。」
「同じ仲間の人たちにも、なかなか教えない秘密だから、モーリスが私にも教えていないと思っているでしょうが、このオリンプが知らないでどうしますか? この度の陰謀とてもモーリスが先鋒で先ず十何人かの決死隊を引き連れてパリへ乗り込み、ルイ王を行幸の道に待ち伏せして生け捕りにし、国境へ引き上げる、それを合図にライソラ伯爵が外援隊の長となって隣国へ命令を伝え、四方から一時にフランスへ兵を進める。」
「内ではノルマンデーを初めとしてその他の地方部隊が皆謀反するという、これらの計画も知っていれば、今度の軍資金がルイ王と位を争うある皇族や、ルーボアを憎むある政治家から出ていて、オランダのアムステルダム銀行頭取グロエイに、預けて有ると言うことまでも知らされているこのオリンプに、貴方は何を隠すと言うのですか?」
「秘密を守ろうとするのにも程があります」とうらめしげにバンダの顔を見つめるので、バンダもうらめしげに、「私がなんでそんなに全ての事を知らされているはずがありましょうか。私はただ夫を大事と思うだけで、夫がどの様な謀反を起こそうとしているのか、又誰を恨んでいるのか、そのようなことには目を閉じて、何も知らずに夫の言いつけをただ守るだけです。
夫がこれを預けると言えば預かり、夫が誰にも言うなと言えば、たとえ殺されても言いません。そのような手箱とやらも、たとえ夫から預かったとしても、どなた様へ渡せとか、話せとか夫に言われるまでは渡しも話しもしないからこそ、夫がこの通り、私を邪魔にもせず戦場まで連れて出るのです。たとえ恩のある貴方様でも教える訳には参りません。」
断個として言い切る様子は、これがかよわき女の口から出たものかと疑うほどだ。夫人は少し腹が立って来たが思い直して、「いや、そうまで言うなら安心するが、実はあの手箱には同志の連判状を初め、その他この度の事件に関わる書類なども入っているので、この頃は、ますますルーボアの詮索も厳しくなって来た事だし、現に貴方の夫を初め、私までこんなに苦しめられている程だから、もしや、あの手箱が貴方の手から奪われてはならないので、改めてこのオリンプが預かろうと思ったものだから。」
言おうとしていることを最後まで聞かずにバンダは「貴方様はこのバンダをお疑いになりますか、バンダはかよわい女だけにこの身を夫に預けてあります。夫の心は身に替えても守ります。もし明朝にも夫の口からパリへ行ってルーボアと国王を刺し殺せと言われるなら、なぜとも、どうしてとも問い返さずに、バンダはただハイと言って一人で宮殿に忍び込みます。手箱とやらも、もし夫から預かっているなら、どなたにも心配はかけません。」
夫人は今更のようにバンダの心の堅固さに感心し「アア、女の愛情ほど世に恐ろしいものはない。」と独り言を言い、更に又「では安心して分かれよう、モーリスの傷が直ったら、オリンプがパリで待っているから速くフランスへ乗り込めと伝えておくれ。」
異様な言葉を残して夫人がやおら立ち上がると、この時隣の部屋から「ウーン」とけが人のうめく声が漏れて来た。バンダは夫人を階段の下まで送りもせず、気ずかわしげに元の部屋に戻り、夫人は階段を降りて行った。この二人の女性は次に再会するのは、何時、如何なる時だろう、読者のご期待を乞う。
第10回終わり