鉄仮面36
鉄仮面
ボアゴベ 著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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第二十七回
奥へ奥へと逃げ込んで、廊下を何回か曲がった末、バンダは自分の足音が非常に高く響いているのに気が付いた。まだ誰も起きて来ないが、誰もいないのかと怪しむほど静かな所なので、今に誰かに聞かれ、怪しまれるのは確実だった。何処かに隠れ様子を伺うところは無いかと急に怖気(おじけ)づいて、足音を潜(ひそ)めてうろうろと辺りを見回すと、七、八メートル先に広い階段があった。
この階段に沿った一室は戸が少し開いていたので、そっと近ずき斜めに覗いてみると、中でひそひそと語り合っている人が見えた。まだ誰も起きてはいないと思っていたのに、もう何か相談している者がいるとは、いよいよ自分への危険が迫っていると思い、発見される前に立ち去ろうと一足引いたが、自分はここに何のために来たのか、敵の秘密を探って、モーリスとオービリヤの生死を確かめるためだったのではないかと、思い直し、少しの言葉も聞き漏らさないようにしようと考えた。
人が起きない中から何か相談するとは、雑兵共のする事ではない。多分、重い役にある人同士に違いないので、これを聞かずに何を聞くことがあろうかと、壁にぴたっと体を付けて聞き入っていると、A「だけれど、死体の数を数えずにそのまま谷川に投げ込むとは少し不手際だよ」
思った通り魔が淵の後始末に付いての話だった。B「いや、確かですよ。死体の数は調べなくても一人も生きて逃げた者はいません。何でも、死体は二十程は確かに有りました。」Aは少し怒った声で「それ、それが間違いだよ。死体が二十も有るはずが無い。同勢十五人の決死隊だから」
Bは少しも慌てず「いや、二十位と思うほどですから十五は確かに有りました。皆殺しです」A「皆殺しと言うのは少しも守備隊長の手柄ではない、人を射ずに馬を射よと前から言って有るではないか。生け捕るのがこっちの目的だ。」
さては一人がこの守備隊の隊長で我が同志を皆殺しにしたことを怒られているものと思われる。それにしても、守備隊長を叱るとはどの様な権威の高い人なのだろうか。彼がもしや前からモーリスが恨んでいるルーボアで、わざわざここに出張して来たのではないだろうか。この様なことを考えると、急に動悸が高鳴ったが、今はどうにもしようがなかった。
やがて又Aの声「したが、その中に十八、九の少年と見える者は居なかったか。」
B「はてな、十八、九の少年ーーー」A「いや、少年と見えて実は二十才ぐらいの女だよ」この一言を聞き、バンダは顔が火よりも熱くなるのを感じた。彼は、一同を殺し尽くしてまだ満足せず、私が生き残っているのかいないのかまで確認しようとしているのだ。
B「多分その様な死体も有ったと思います。」A「益々惜しいことをした。その女はぜひ生け捕りにしたかった。」B「しかし、何もかも知っているのを生け捕りにしたのですからよいでは有りませんか。」何もかもよく知っているとは我が夫モーリスのことか、それともあのオービリヤのことか。A「いやいや、まだ不十分だ。しかし今更仕方ない」
私まで生け捕りにしなかったことを残念がるこの強欲非道(ごうよくひどう)なのは何者だろう。ルーボアの顔は見た事はないが、たぶんルーボアに違がいない、夫モーリスを初めとして同志一同の仇(かたき)の張本人、後日、時が来たら第一に彼に恨みを晴らすのに、顔だけでも見ておこうと、バンダは大胆にもそろそろと壁を離れ、今度は戸口の向こうに回り、再び斜めに覗いてみると、平服を着た小柄の紳士だった。
まさかこれが厳しいルーボアとは思えなかったのと、なんとなく前に見たことがありそうなので、またよく眺め、考えてみると、これはかって、居酒屋でモーリスがフランベルジーンの持ち主に傷つけられた時、その持ち主と一緒に来た賢そうなあの小紳士だった。
あの小紳士がルーボアの配下の一人でオリンプ夫人を白ベッドで殺そうとしたこと。又その名をナアローと言うこともオリンプ夫人から聞いて知っていたので、バンダは大体の事を理解した。魔が淵の計略を計画したのもこの背の低い紳士に違いないと思うと、この男を食ってしまいたいほど憎くらしく思えた。
そのうち守備隊長は更に言い訳をするようにナアローに向つて「ですが、私としてはずいぶん良くやったつもりですが。昨日の朝から急いで土手の後ろに小屋がけをし、その上に土を盛り芝を植えたりして、松明(たいまつ)をその中に隠して、敵から見えないようにして待ったいるなんて」「なに、それぐらいは当り前の事だよ。生け捕るものを生け捕りにしなければ、どんな手柄も消えてしまう。」
生け捕るものを生け捕らぬとは夫モーリスの事に違いない。とすれば、生け捕られた者はオービリヤ大尉で、モーリスは水底の藻屑(もくず)と消えてしまったのだろうか。川の底で私の足に当たったあの死体は、あるいはモーリスだったのかも知れない。そうと知っていれば私も抱付いたまま死ぬのだったのに、生き残ってしまったのは情けないと胸一杯に迫り来る涙、泣きたくても泣けない悲しさにバンダは袖を噛みしめて忍び泣くばかりだった。」
部屋の中の二人はそうとも知らずに「それは余りに厳しすぎます。兎に角、兵士にまで訳を知らさず、あの通り決死隊を全滅させたのは私の手柄ですよ。これでもう、彼らの一行が何処でどうなったのかを知る者は誰一人居りません。彼らの謀反を通して、今に彼らの成功を聞いた上で旗揚げをしようと待っている者どもは、彼らが無事にパリに入り込んだものと思い、今か今かと吉報を待っているでしょう。一月が二月経ってもついに何の便りもないから、さては彼らの決心が鈍り、何もせずに散ぢりになってしまったのかと断念し、拍子抜けして旗揚げも何もなくなり天下泰平に治まります。
いえ、それはもう確実です。決死隊十五人が魔が淵で襲われたと言うことは千年の後までも秘密です。(訳者注:この事件は今でも暗号で書いた当時の公式記録が残っており、少しずつ歴史にも書かれるようになって来た。)」
「なに、ルーボア殿の大目的はその様な浅はかな考えではない。お前のやり方はむしろ失敗だ。」「それは情けないことをおっしゃる。私がこの様に何もかも厳重に取り扱って秘密に秘密を守っておりますのに」
「いや、罪にされる程の失敗では無いにしても、兎に角お前にこの大切な守備隊を任せては置けない。ここはブリュッセルから攻めて来る者達がほとんどは通る大事な所だから、お前は他の詰まらない守備隊に移してやる。」「それはどうも」「いや、詰まらない所でもう一辛抱するがよい。そこで又手柄でも立てたら再び昇進させてやろう。それまではそうだな、何処が良かろう。ああ、「ピネロル」の守備隊が丁度良さそうだ、今にその命令が来るからここで待ってるが好い。」と容赦もなく言い渡され、守備隊長はひどく失望した様子だったが、ナアローは更に自分の言葉に重みを加えるために、
「お前は厳重厳重と言うが、まだ見張りも届かないところがある。すでに、昨日の日の暮れに四頭立ての馬者に乗り、この守備隊の前を通った者があるのをお前はまだ知るまい。」「それは私の職務外です。」「そうではない。その馬車に乗っていたのはある貴夫人で、途中で決死隊を救うつもりでここまで来て、色々と宿屋などで聞いていた。幸い誰も知らなかったから、貴夫人はまだ決死隊がここまで来ていないのだろうと思い、ブリュッセルの方へ行き過ぎたが、これなども、早く言えばお前がその馬車を見ただけで、怪しまなければならないところだ。」
「しかし、その貴夫人とやらが、何も知らずにここを通り過ぎたと言うのも、結局、私が秘密を守っているためでは有りませんか」「それは当り前よ。この秘密が洩れでもしたら、お前は「ピネロル」へ移されるくらいでは済まされぬ。大牢獄へ入れられる程のものだ。しかし、過ぎた事は仕方が無い。どれ、昨夜生け捕ったと言う者をここに連れて来い。」 守備隊長は返す言葉もなくすごすごと立ち上がり、バンダが覗いているドアの方へ出て行こうとした。
第27回終り