鉄仮面94
鉄仮面
ボアゴベ 著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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第八十五回
ナアローが現れてから、バイシン救出の計画はどうなったのだろうか? その手順が全く狂ってバイシンは硫黄火に焼き殺されて仕舞ったのだろうか? それらはしばらく後にして話を元の筋に返して、ここでは先ず読者の気がかりなあの鉄仮面の居所からバンダの身の上に話を移そう。
鉄仮面が護送台に乗せられて、バスチューユから何処かに移されてから、早くも一昔が過ぎて仕舞った。今は1681年で、あの時からおよそ八年が経った。その間鉄仮面は何処の牢屋に隠され、どの様な目にあって、今はどの様な有様になっているのか、知っている人は誰もいないが、ここフランスとイタリアの国境に、ピネロルと言う谷間の宿場がある。
ここの守備隊砦に、八年前から押し込められて非常に悲惨な取扱を受けている一人の囚人がいた。これこそあの鉄仮面だった。彼は八年の苦労の末ようやく鉄の面を取り外し、自分の顔を空気にさらすことだけは出来るようになったが、これでさえも公に認められた事ではなかった。ただ牢番がいないときにそっと外し、牢番の足音を聞いたらあわてて又鉄仮面を被るため、誰も彼の顔を見た者はいない。彼は依然として憐れむべき鉄仮面なのだ。
彼が捕らわれている部屋は、山と山の間に築いた石造りの二階建てで、窓から先に三十センチも離れていないところに、高い塀を建て回してあるので、塀の外の様子はもちろん知る方法が無い。一年中ただ薄暗いばかりで、ときどき吹く風に乗って、窓から山の霧が出入りするだけだった。日の光も差し込まないので、湿り気の多いことは言うまでもなかった。
今では彼はこの窓に身を寄せて、篭の目のように縦横に編んだ鉄の棒にぴたっと寄り添い、何か塀の外から聞こえて来るものはないかと物音に耳を澄ましていた。幸いなことに丁度牢番がいなかったので、彼は鉄仮面を外しその顔を現したが、誰も彼の顔を見る事は出来なかった。たとえバンダやコフスキーを連れて来てこの前に立たせても、恐らくこの憐れむべき囚人が、モーリスなのかオービリヤなのか、あるいは又別な人なのかを、見分けることはできなかっただろう。
彼は長く捕らわれていたので、その髪の毛はすべて真っ白になり、顔かたちも全く変わり、体も非常に曲がって仕舞ったので四十か五十か、六十か年齢も見分けが付かず、ほとんど年齢が分からなかった。その着ている衣服も、ほとんど元の形を残していなかった。汚れ垢が付いていることは言うまでもないが、所々裂け破れてつなぎ合わせたところもあった。何処が衿で何処が袖、色もさめ形もくずれてただ体を覆(おおう)っているだけだった。靴も底が抜け破れて、ほとんど足の踏むのに耐えられないが、無いよりはましだろうと言うことで、はいているに過ぎなかった。
この様子から考えると八年の間に一度もその服を着替え、その靴をはき変えたことは無かったと思われる。ルーボアの意地の悪い命令と牢番の残酷な取扱は、惜しくもはつらつとしていた勇者をこの様にみすぼらしくしてしまったのだろう。しかし、彼はまだ死にもせず、こんな姿で命だけを長らえていたのではなく、心の中には燃えてまだ消え尽くさない霊火一点が有るのに似ていた。
特にその目は澄んでいて、この世が人には見られないような異様な光を持っているのは、一身の思いと力をすべて目に集めているからなのだろうか。そうは言っても、今はこの目は何の役に立とうか。空の色さえ見ることが出来ない一室に閉じ込められて、目はあっても見るものはなかった。塀の外の様子はこんなだろうとわずかに推量できるのは、ただ耳に聞こえる物音からだけだ。
彼が今窓に寄り添って一心に聞いているのは、谷川の水の音や、梢(こずえ)吹く風の音ではなかった。何処からか切れ切れに聞こえて来る女の声だった。声も声、節回しの面白い歌声で、耳を澄ませば聞こえて来て、離すと聞こえなくなる。塀の外から聞こえるのか、それとも、もっと遠くから聞こえて来るのだろうか。どちらにしてもこの辺は番兵以外は来るところではない。特に女などは入り込めるところではないので、何者がどの様にしてこの可憐な声を送っているのだろう。
何か訳が有りそうに思われ、又不思議に思って、益々耳を鉄の格子にすり寄せると、歌っている方も密かに歌っているのか、ハッキリと聞き分けるのは難しかったが、どうもフランスの歌で、かって聞き覚えの有るものに似ていた。聞くこと五、六分で心にそれと察して「おお、どうしてもこの部屋に聞こえるように歌っているのに違いないようだ。」と独り言を言いそっと窓から体を離し、藁(わら)もはみ出している、ベッドの下をがさごそと手でかき回して、恐る恐る辺りを見回しながら取り出した一つの物を何かとみると、これは毎日食べ残したパンの屑を団子にして、これに爪で何個かの文字を彫りつけ影干しにして固めた物で、前からこんな時のために用意して置いた物で、外にいる人に投げ与え、自分の心を知らげさせために作って置いた物だった。
彼はこれを取り上げて、非常に大事そうに何度か手の平の上で転がして見ながら、「ああ、これと別れるのは子供と別れるような気がする。この様なことをして、外の人と通信するのはずいぶん危ないやり方だけれど、俺にあの歌を聞こえよがしに歌う者なら、それと見て捜すだろうし、そうでなければ気が付かないだろう。この玉は草の中に転がり、一雨降れば溶けて仕舞い、そのまま誰の目にも触れずに済むから、それほど危ないこともない。こんな時に外に投げなければ、またと投げる機会は来ない。その代わり、もしまだ世間で俺の名前を覚えている者がいて、この玉がその人の手に入れば、どうかして又助けられないとも限らない。」と言い、彼はまだこの世に望みを捨てていなかった。
再び窓のところに行き、鉄の格子の間から、塀の外へとあの玉を投げ出すと、しばらくしてから「ポーン」と聞こえる音がした。哀れなことに、あの玉は水の中に落ちてしまったのだ。さてはこの塀の外は堀になっていて、歌は堀の外の土手の上から聞こえて来たものだったのか。そうとも知らずに、百日の苦労を水の泡にしてしまったのはこれも自分の不運だと、この男は目に涙を浮かべ、余りの失望に二足、三足後ろによろめいた。
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