巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

鉄仮面98

鉄仮面

ボアゴベ 著  黒岩涙香 訳  トシ 口語訳 

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(拡大率125%が見やすい)

since2009.8.14

今までの訪問者数1091人
今日の訪問者数1人
昨日の訪問者数0人

                 第八十九回

   
 牢番セント・マールスは自分から洗濯物の束を解き、これはシャツ、これはハンケチと一つ一つ調べた後、別に怪しい物も見つけなかったように、又一つに束ねてこわきに抱え、「好し」と言って立ち上がり、まだ心配している鉄仮面に向かって、「では後で聖書だけは差入れてやるから」と言って、そのままこの部屋を出て行った。外からこの部屋に鍵をかけ、廊下を向こうに立ち去ったので、鉄仮面は自分の計画が見破られなかった事を喜ぶように、「ああ、有難い。あの疑い深い牢番めに、見破られなかった事は、本当に天の助けだ。」と独り言を言いながら、天を仰いで拝んだ。

 さて牢番セント・マールスが、こちらに歩いて来ると、廊下の曲がり角に控えて、待っていた二人の兵卒がいた。察するにセント・マールスは囚人を見回るたびに、もしかして囚人が絶望のあまり破れかぶれになり、自分に暴行を加えることが、有るかも知れないと心配し、その時に呼び入れて囚人を取り鎮(しず)めるため、いつも自分の護衛として兵卒を従えていたのだ。ただ秘密の囚人の様子を、兵卒などに簡単には見せられないので、わざと廊下の曲がり角に待たせて置いたのだ。二人の兵卒はあたかも狛犬(こまいぬ)の様に、神妙に待っていたが、セント・マールスが洗濯物を持って来るのを見て、うやうやしく立ち上がると、セント・マールスはその中の痩せたほうに向かって、「これ、軍曹、バアトルメイアは来ているか。」と聞く。

 バアトルメイアとは誰の事だろう。奇妙な名前だが軍曹は怪しまず平気な顔で、「はい、今しがた洗濯物を持って来ているようです。」と答えた。さては洗濯する女の名前とみえる。軍曹は答えながら手を延ばし「どれ、私がその洗濯物をバアトルメイアに渡しましょう。」と言ってその洗濯物を受け取ろうとすると、セント・マールスは気味の悪い目付きをして軍曹の顔をながめ、「なに、それには及ばぬ。」と味もそっけもなく答え、自分から先に立って廊下を曲がり建物の外に出たが、更に事務室とも言うべきところに行って、二人の兵士を立ち去らせ、自分一人でその中に入ると、ここにまた恭しく控えて待っている者が一人いた。これが今言ったバートルメイアとか言う者だった。年は既に三十を越したかと思われるみすぼらしい女で、身には洗いざらして、見る影もない仕事着を着て、髪も何ヵ月も櫛(くし)を入れたことが無いように、ほこりだらけに乱れていたが、その顔つきの何処かに、隠しても隠しきれない一種の美しさがあった。

 もしこの女を磨き上げ、都の服を着せたら王侯貴人も夢中にさせるだろうと思われるが、世の中に女ほど姿形の変わるものはなく、おしゃれをするのとしないのとでは雲泥の違い、特に見苦しい仕事着を着ていては、絶世の美人も誰の目にも付かずに終わってしまう。まして牢番セント・マールスは、ただ意地悪く自分の職務に凝り固まっているばかりで、その他の事には目もくれないので、この女が汚い身なりの下に、どれほどの美しさを隠しているかなど、思っても見ないので、もし気に止めてつくづくと見れば、年だって見えるほどには老(ふ)けていないし、ただ長い苦労のため、やつれているだけなのを、見破ることだろう。セント・マールスはこれに向かって何気ない調子で、「おお、美人、ここにいたか。もう洗濯物は済んだと見えるな。」

 「はい、まだ仕掛けた物もありますが、多分仕事が下される時間だと思いまして」「うむ、それはよいが、これ、バートルメイア、たった今その方は堀の外で何をしていた。」バアトルメイアは少しも騒がず「はい、干して有る洗濯物を取り込んでいました。」「いや、誰があそこに洗濯物を干して好いと許したのだ。」「はい、この山の間に、あそこ以外に日が当たるところが有りませんので、先日副隊長にお願いしましたら、干しても差しつかいないと言うことでした。」「副長は馬鹿者だ。隊長の俺が許るさん、以後決して堀の近辺に干し物をしてはならんぞ。」

 厳かに言い渡されて、バートルメイアは何も返す言葉がなく、ただ黙ってかしこまっていた。セント・マールスは更にバートルメイアの顔を見つめて、「そればかりかあのところは、丁度囚人の窓の下に当たるのに、その方は大きな声で歌を歌っていたな。」バートルメイアはわざと笑い、「おほほほ、仕事をするのに歌ってはいけないと仰(おっしゃ)りますか。日はいつもより暖かに照りますし、見渡す四方の山々には、花がきれいに咲きまして、つい心まで浮き立ち、いつもの癖でつい鼻歌を歌って仕舞いました。囚人の窓の下とは知りませんで、いえ、もうこれからはきっと気を付けます。」と簡単に申し開きをしたが、セントマールスはなおも不審そうに、「歌も歌、あれは十年ほど前にパリで流行った歌ではないか。」

 「はい、先年夫がパリの兵営にいたころ、私も一緒に行き覚えました。仕事をしながらいつもあの歌を歌いますが、今日は番兵に叱られました。」「うむ、叱ったのがもっともだ。これ、バアトルメア、今までその方は何の落度もなく勤めたが、この頃は余りに我がままが過ぎる様に見える。この後再び俺の目に余ることが有れば、その方の夫あの軍曹と一緒に放逐し、再びこの土地に入ったら死刑に処する事にするぞ。」と目を光らせて言い渡されたので、バアトルメアの青い顔に、急にハッと血の気がさしたのは、この叱りを恐れてなのか、それとも深い恨みを持っていて、ほとんど抑えることが出来なかったからなのだろうか。

 しかし、やがてバアトルメアは思い直したように、非常に穏やかな言葉で、「はい、今後は決してお叱りを受けないように致します。今日の失礼はどうかお許しください。どれ、洗濯物を頂いて帰りましょう。」と丁度先ほど軍曹が手を出したようにその細い手を差し出すと、「おっと、そうはさせぬ。」とセント・マールスは小脇に一層力を入れ、「ほほー、大層急いでこの洗濯物を受取たがるなー。」とあざけり、またも鋭い目でバアトルメアの顔を見ると、バートルメイアは今まで赤くなっていた顔を、土よりも青くしながらなお心を失わず、「はい、今夜の中に他の洗濯物と一緒に煮立てようかと思いまして」「いや、明日まで俺が預かって置く、さあ、帰って又明日来い。」

 ここにきてバアトルメアは何とも返事のしようがなく、よろめく足並みを気付かれまいとして、ゆっくり後ろに下がったが、もしその全面に立って顔色をながめたなら、心の中は熱湯を飲まされたよりも、辛い思いをしていることが察せられた事だろう。そもそもこの女は何者なのだろうか。元々からの洗濯女なのだろうか。

つづきはここから



a:1091 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花