巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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  噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 

     一  一人の旅人

 仏国(フランス)の東南端プロボンと言う一州に、ダイン(Digne)と称する小都会がある。
 別に名高い土地では無いが、千八百十五年三月一日、彼の快雄ナポレオンがエルバの孤島を抜け出して、カンヌの港に上陸し巴里(パリ)の都を指して上った時、二日目に一泊した所である。彼が檄文を印刷したのもここ、彼の忠臣ベルトラン将軍が彼より先に何度か忍び来て、国情を偵察したのもここである。

 此の外に此の小都会が、多少人に知られているのは、徳望限り無い高僧、彌里耳(みりいる)先生が過ぎる十年来、土地の教会を管轄して居る一事である。

※ 注;激文・・・急いで兵隊や同志を集めるための手紙

*      *      *      *     
 今はそれより七か月の後、同じ年の十月の初め、或日の夕方、重い足を引き摺(ず)って、漸(ようや)くこの地に歩み着いた一人の旅人は、日に焦(こ)げた黒い顔を、古びた破帽子(やれぼうし)に半ば隠し、確かには分からないが、年の頃は四十六、七と察せられる。

 靴も着物もそのズボンも、ボロボロに破れて居るのは言うに及ばず、埃(ほこり)に塗(まみ)れたその風体の怪しさに、見る人は憐みよりも恐れを催し、道を避ける程で有ったが、彼れは全く疲れ果てて居ると見え、町の入口で、汗を拭き拭き井戸の水を汲み上げて呑み、又一、二百メートルほど行って町中の井戸で水を呑んだ。

 抑(そもそ)も彼は何処(どこ)から来た。何処へ行く。何者である。来たのは多分、七ケ月前にナポレオンの来た南海の道からで有ろう。行くのは市庁舎の方である。やがて彼は市庁舎に着いた。そうしてもう役人の退(し)けてしまったその中に歩み入ったが、当直の人にでも逢ったのか、凡そ半時間ほどにして又出て来た。

 是で分かった。彼は何処かの牢で苦役を務め、出獄して他の土地へ行く刑余の人である。途々(みちみち)神妙に役所へ立ち寄り、黄色い鑑札に認めを印(しる)して貰(もら)わなければ、再び牢屋へ引き戻されるのだ。法律の上から、「油断のならない人間」と認められている奴である。

 市庁舎を出てから彼は又町を彷徨(さまよ)った。時々人の家を覗き込む様にするのは、もう空腹に耐えられず、食と宿りとを求めたいのであろう。そのうちに土地で名高いコルパスと言う旅館の前に行った。入口から直ぐに見通した料理場に、燃え上がるほど炭の火が起こって、その上に掛けた平鍋には、兎の丸焼きや雉(きじ)の揚げ出しが転がって、脂のたぎる音が旨(うま)そうに聞こえ、何とも言えない好い匂いが、腸(はらわた)まで浸み透るほど薫(かお)って居る。

 勿論彼は此の前を通り切れない。油揚げに釣られる狐の様で、よろよろと中に入った。
 中では主人自ら忙しく料理の包丁を繰(と)って居たが、客の来た物音と知り、顔を上げずに、
 「好く入らっしゃい、御用向きは。」
と問うた。疲れた空腹の、埃(ほこり)だらけの旅人は答えた。
「夕飯と寝床とを」
 主人「それはお易い御用です。」
と言いつつ初めて顔を上げ、客の風体を見て案外に感じたか、忽(たちま)ち渋々の声と変わって、
 「エー、お払いさえ戴けば」
と言い足した。

 客は財布を出し掛けて、
 「金は持って居るよ」
 主人「それなら宜しい」
と不愛想よりもやや戸惑い気味である。

 客は安心してすっかり気が抜けた様子で、背に負っていた袋と懐中(ふところ)の財布と、手に持った杖とを傍に置いた。その間に主人は帳場に会った新聞紙の白い欄外を裂き取って、鉛筆で走り書きで何か書き認(したた)め、目配せを以て傍に居た小僧を呼び、二言三言その耳に囁いて、今の紙切れを手渡すと、小僧は心得た風に戸外の方へ走り去った。

 十月の初めだから、夜に入ると少し寒い、特にここはアルプス山の西の裾野に当たり、何時も絶え間なく、頂辺の雪から冷え切った風が吹き下ろすので、外の土地とは違う。先刻まで汗を絞って居た旅人も、早や火の気が恋しくなったと見え、火鉢の方に手を延べて、少しも主人のした事に気が付かず、唯空腹に攻められて、

 「何うか食う物だけは急いで貰い度い。」
 主人「少々お待ち下さい、唯今。」
と言う所へ小僧は又急いで帰り、返事と見える紙切れを主人に渡した。
主人は之を読んで眉を顰(ひそ)め、しばらく思案に余る体で、その紙切れと客の横姿とを彼是見比べる様にして居たが、そうとも知らない客の方は、空腹の上にまだ気に掛かる事でも有るのか、少しも気が晴れない様子で、首を垂れて考え込んで居る。終に主人は決心が着いたと見え、突々(つかつか)と客の傍に寄り、

 「何(どう)も貴方をお泊め申す訳には行きません。」
全く打って変ったと言う者だ。客は半分顔を上げ、
 「エ、何だと、騙(だま)されるとでも思うのか。では先払いにしよう。金は持って居ると断ったのに。」
 主人「イイエ、部屋の空いた所が有りませんゆえ。」
 客は未だ失望しない。非常に静かに、
 「部屋が無ければ馬屋で好い。」

 主人「馬屋は馬が一ぱいです。」
 客「では何の様な隅っこでも構わ無い。藁(わら)さえあれば敷いて寝るから、先ア兎も角も食事を済ませてからの相談にしよう。」
 主人「食事もお相憎(あいにく)様です。」
 客は初めて驚いた。

 「その様な事は無い。私は日の出ない前から歩き通して、腹が空いて死にそうだ。十二里(48km)も歩いて来たのだ。代を払うから食わせて貰わなければ。」
 主人「食べる物が無いのです。」
 客は声を立てて笑った。全く当の外れた笑いである。そうして料理場に向き、
 「食べる物が無いとな。彼(あ)の沢山あるのは何だ。」

 主人「あれは総てお誂(あつら)え《注文品》です。」
 客「誰の」
 主人「先客の」
 客「先客は何人ある」
 主人「ハイ、アノ、十ーーー二ーーー人」
 客「十二人、フム、二十人だって食い切れぬ。」
 言いながら客は座り直して改めて腰を据え、

 「ここは宿屋だろう。此方(こちら)は腹の空いた旅人だから、食事をするのだ。」
 主は店口で高声などを好まない。客の耳に口を寄せ、
 「今の中に立ち去って下さい。」
 全くの拒絶である。放逐である。客は振り向いて何事をか言い返そうとしたが、主人がその暇さえ与えない。猶(なお)もその耳に細語(ささや)いて、

 「無言(だま)ってお去りなさい。貴方の名も知って居ます。言いましょうか。貴方は戎・瓦戎(ぢゃん・ばるぢゃん)」
 戎・瓦戎(ぢゃん・ばるぢゃん)と言う奇妙な名に、客はギクリと驚いた。


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