巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百一 陥穽(おとしあな) 九

 蛇兵太の姿を見て、部屋の中の誰れ一人、驚かぬ者は無い。唯だ白翁のみは、是れで自分が助かるのを喜ぶべきであるのに、翁も悪人等と同様に、驚く心が其の顔に現われた。
 併し、蛇兵太は、未だ守安から合図もしないのに、何うしてここへ来たのだろう。実は余り合図が遅いから、待ち兼ねてやって来たのだ。

 彼は宵の程から、塀の間や、庇の陰などに手下を伏せ、自分も人目に着かない所へ忍んで居て、此の家へ悪人等の出入りする様子や、馬車の行きつ戻りつする事などを見た。勿論この様な事には慣れた眼だから、大抵の内の様子を察し、最早合図の有る頃と幾度も思ったけれど、其の合図が無いので、先ず外を見廻って、町の角を見張って居る一人の娘を捕らえた。之は手鳴田の妹娘である。姉娘の方は、何所へか行って、其の場所に居なかったので捕らえることが出来なかった。

 其れから又、暫く様子を見て、最早合図が無くても捨て置き難いと思い、先刻守安から預かった鍵で以て、入口の戸を開いて登って来たのだ。実に危機一髪と言う所へ着いた。
 彼の姿を見て、部屋中の悪漢等は、混雑の上に混雑を重ねた。勿論第一には彼に抵抗しようとした。警官を叩き殺して置いて逃げ失せるのは、悪人等に有りがちの事なんだ。けれど其の手に乗る様な蛇兵太では無い。彼は先ず雷の様な声で叫んだ。

 「抵抗すれば罪が重いぞ。汝らに三倍する手下が俺の背後に附いているから。」
 いずれも悪事の苦労人だから、手下の数の多いのを見て、直ぐに鎮まりはしたけれど、手鳴田と其の妻は容易に鎮まらなかった。今捕らわれては、首謀の廉(かど)で重い刑に処せられると言う恐れが有るから、亭主は短銃を持って、妻は何かの重しの為に其の部屋に在った大きな石を振り上げて、共に最後まで戦う勇気を示したけれど、全く蟷螂(とうろう)の斧であった。少しの間に二人とも取り押さえられて了(しま)った。

 悪漢共は初めから顔に墨を塗ったり、仮面を被ったりして居たけれど、蛇兵太の眼力には敵し得なかった。蛇兵太は宛(あたか)も開いた本を読む様に、一々彼らの名を呼んで、次に卓子(テーブル)に繋(つな)がれて居る白翁を顧みた。白翁は首を垂れて居る。誰にも其の顔は見えない。蛇兵太は手下に向かい、
 「早く彼(あ)の紳士の縄を解いて上げぬか。」
と促した。

 直ぐに手下が白翁の足の縄を解いてやった。
 此の場で蛇兵太は、直ぐに現場の報告書を作らなければ成らない。其れが職務である。別に詳細を認(したた)める事は出来ないけれど、大凡を書き記すのだ。彼は手帳を取り出し、忙しく書き始めたが、やがて書き終わって、

 「サア、被害の紳士、きっとご迷惑で有ったでしょう、もう此の通り悪漢一同を捕縛したから大丈夫です。此の者等が貴方に何の様な暴行を加えたか、詳しく伺いましょう。」
と言いつつ、白翁の方に向いた。

 これは一体何(ど)うしたことか。白翁の姿は消えて了った。此の部屋の何処にも見えない。寝台の下にも、テーブルの下にも、ハテ何所へ行ったのだろう。手下の警官等も悪人を捕らえる方へ気を取られて、被害者の方へは目を附けなかった。被害者が消えて了(し)まうなどと言う例(ため)しは、余り無い事だから無理も無い。

 全く白翁は何うしたのだろう。彼は自分の足の縄が解かれると同時に、窓に行き、今しも手鳴田の掛けた縄梯子を伝い、立ち去って了(しま)ったのだ。蛇兵太は怪しんで、
 「戸口から立ち去る筈は無いが。」
と呟(つぶや)き、直ぐに窓の所に顔を出した。

 窓には猶だ縄梯子が揺々(ゆらゆら)と動いて居る。たった今去った事が之で分かる。蛇兵太は気が附いた。
 「エエ残念。貴様らの様な馬鹿な悪人より、逃げた被害者の方が大切な獲物で有ったかも知れない。」
と言った。
 
 彼は逃げ去った此の被害者が、誰であるかと言う事は未だ知らない。若しも彼が幾年も附け狙って居る戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)で有ったと知ったなら、彼は今でも其の後を追掛ける程にするだろう。

 此の被害者が戎瓦戎である事は、今更断る迄も無く、読者が既に気が附いて居る所である。白翁は即ち戎瓦戎で、黒姫は小雪なんだ。世の中と言う者は、偶然であるか神の業であるか知らないけれど、妙に糸が絡まって居る者である。
  


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