aamujyou103
噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳 *
since 2017.7.13
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史 訳
百三 十七八の娘
其れは扨(さ)て置き、彼の守安は手鳴田等の引き立てられて行った後に、暫(しば)らくの間は何の思案も出ないほどに心が騒ぎ、自分の部屋で自分の身が落ち着かない様に感じたから、其のまま外に出、以前から親密にして居る彼の「ABCの友」の会員、近平某と言う者の宿に行き、一夜を明かした。
若し元の宿に居ては、此の後、警察署や裁判所へ証人として呼び出され、自然に父の遺言に背いて、手鳴田の不利益となる様な事も、言い立てなければ成らないから、彼等の裁判の落着するまで、成るべく警察などへ、自分の居所を知らさないのが好かろうと思い、翌朝直ぐに少しの金を工面し、元の宿に行って払いを済ませ、僅かばかりの荷物を引き取って来て、近平某と同宿する事にした。
この様に体が落ち着くと、昨夜の事が益々心に浮かんで来る。自分は確かに手鳴田を助けなければ成らない義務が有るのに。此のまま知らない顔で居て済むだろうか。イヤ決して済まない。若し父の霊が彼の世から、自分の此の様を見れば、親の遺言を良く守らない、不埒(ふらち)な奴と此の身を攻めるに違い無い。
併し今と為っては仕方が無いから。攻めては牢の中の手鳴田へ、月々小使いでも差し入れて遣ろうと、こう思って此の後は、苦しい中から毎月五円づつを、欠かさずに差し入れた。但し厳重に自分の名を隠したから、きっと手鳴田は牢の中で、何処の阿呆が此の様な事をするかと怪しんだだろう。
けれど是よりももっと気に掛かるのは、白翁と黒姫の事である。悪人共に取り囲まれた時の白翁の勇気と挙動とは、実に感心の外は無いが、唯だ其の最後に警官の姿を見て、窓から逃げ去ったのは何の為だろう。余ほど警察を恐れなければ成らない様な身の上かも知れない。そうとすれば黒姫の身の上も、或いは安心の出来ない様な場合が多いのでは無いだろうか。
何にしても黒姫の居る所を探し出さなければ成らない。
今までと雖も、守安が黒姫の為に思い煩(わずら)ったのは、並大抵では無かったが、是からは又一段とその煩いを加えた。彼は全く痩せ衰え、同宿の近平からも怪しまれる程に成った。けれど何の目当ても無い尋ね者だから、事に依れば、生涯を空しく黒姫の跡を尋ねるのに、費やさなければ成らないかも知れ無い。
彼は全く其れを嫌だとは思って居ない。心の底では其れほどの覚悟で居る。
彼は毎日家を出て、町中に尋ねて歩く。曾て黒姫に逢った公園にも行く。黒姫の元の住居の辺をも徘徊する。凡そ若い恋人が恋人を尋ねるのに尽くす丈の、愚かな手段は尽くし尽くした。そうして彼が其の間に立ち寄る家と言えば、唯だ真部老人の許のみである。
此の老人は、昔し我が父が、余所ながら私の姿を垣間見ようとして、故々(わざわざ)巴里の教会堂の庭へ忍んで来た頃に、其の教会堂に居て、父の姿を身、其の後、父の事を私に知らせて呉れた人である。此の人は既に八十一歳の高齢では有るけれど、守安の様な少年と親交が続いて居るのは、双方とも貧乏な為である。
貧乏と貧乏とは話が合う。併し八十を台にした人の貧乏は、二十を台にした人の貧乏より辛いだろう。其の辛さが気の毒だから、守安は助ける事も出来ないけれど立ち寄って、未だ老人が首も縊(くく)らずに居るのを見届けて、安心する程の次第だ。
或時彼は老人から聞いた。
「昨夜、ここへ来て貴方の今の住居を聞いた人が有りましたよ。」
と、余り不思議だ。未だ世の中に、此の守安の事を気に掛けて居る人が有るのだろうか。
守安「何の様な人でした。」
老人「夕方で老眼には良くは見えませんが、十七八の女かと思われました。」
守安「エ、姿は良く見えなくても、声は聞こえたでしょう。」
老人「声は却(かえ)って男かと思われる様に濁った声でした。」
少しも分からない。声の濁った女とは、イヤたとえ声の爽やかな女だとしても、守安を尋ねる筈は無い。
老人「私は知らないと答えました。」
此の又翌日である。守安は当ても無く町を徘徊した末に、但有(とあ)る広小路の樹の陰に休息して居た。忽(たちま)ち背後から濁った声が聞こえた。
「アア到頭見附かった。守安さん、守安さん。」
驚いて振り向くと、十七八の娘である。娘とは名ばかりで、実は見る影も無い乞食だ。
守安は目に角を立てたが、良く見れば手鳴田の娘。確か絵穂子(イポニーヌ)と言ったのだ。
多分は町に寝、風に吹かれ、咽喉(喉)を破った者だろう。男の様な声である。
絵穂子「其の様な剛(こわ)い顔をするには及びませんよ。貴方は私に、捜しものを頼んだ事を忘れましたか。」
守安「エ、私が捜し物を、貴女に」
絵穂子「頼んだでは有りませんか。是れが分かれば、私の言う通りのお礼をすると言って。」
守安「アア」
絵穂子「ソレ白髪頭の慈善紳士に連れられて居た、美人の所番地をさ。」
守安は神の声にでも接した様に感じた。
「エ、其の所番地が分かりましたか。」
絵穂子「分かったから知らせて上げるのです。私は親切でしょう。」
a:570 t:2 y:0