巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou109

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百九  庭の人影 二

 仮にも一家の主人(あるじ)たる以上は、自分の留守の夜に、庭に忍び入る人影が有るとすれば、驚かずには居られない。
 戎(ぢゃん)は小雪から、「庭の人影」の話を聞き、様々の疑いを浮かべた。彼の身は何から何まで疑わなければねば成らない境遇とは成って居る。

 警察の探偵では無いだろうかとの懸念も有る。手鳴田の残徒では無いかと疑う事も出来る。其れだけでは無い。彼は曾(かつ)てレキセンブルの公園から、小雪の後を尾けて来た書生風の男の事までも思い出した。全体言えば、あの事などは最早忘れて了(しま)まうべき頃で有るのに、戎は妙に忘れない。時々あの事を思い出す。

 是から戎は、誰にも知らさずに、夜な夜な一人庭を歩いた。
 或る夜小雪は、自分の部屋の窓下で、曾て聞いたと同じような足音を聞いた。恐(お)そる恐そるながらではあるけれど、ソッと窓の戸を開けて見ると暗い所に人影が有る。慌てて戸を閉ぢやうとすると、其の人が声を発した。

 「ナニ恐い事は無い、私だよ。」
 小雪「アア、阿父さんですか。」
 全く戎瓦戎であった。
 数日の後、夜は既に一時と言う頃、戎は庭に立って小雪を呼んだ。小雪は寝て居たけれど、何事かと思い、起き出て庭に行った。戎は嬉しそうに笑いつつ、

 「和女(そなた)を驚かした庭の人影の正体が分かったよ。」
と言い、庭の面に写って居る異様な物影を指指し示した。成る程帽子を被(かぶ)った人の影に良く似て居る。実は屋根に聳えた煙突の影なんだ。
 「アア私は此の影に驚かされのでしょうか。」
と小雪は且つ笑い、且つ訝(いぶか)った。

 全く戎は安心した。此の後はもう気に留めない事に成ったけれども、先の夜、小雪を驚かしたのが果たして此の影で有っただろうか。先の夜と今夜とは月の居所が違う。先の夜の影は二度目に見直した時、消えて了まって居た。煙突の影ならば、小雪に見直されるのを恥ずかしがって隠れて了う筈は無い。

 けれど小雪は深くは気にしない年頃だから、扨(さ)ては是れで有ったのかと思った。婆やの言った通り気の迷いの為に、人で無い者を人だと思ったのかも知れない。
 けれど、又幾日をか経て、又異様な事が有った。此の夜も戎瓦戎は留守であった。

 何所へ行くか知らないけれど、戎は前から独りで夜歩きをする事が多い。時に由ると一夜も二夜も帰らないことも無いでは無い。多分は彼れ、世を忍ぶ身の上で、昼間は通行することが出来ない様な場所も有るから、夜に成って用事を足しに行くことも有るのだろう。貧民を恵む彼の癖として、余り人の噂と為らない様に、顔を見知られない刻限に、貧民の家を尋ねる事なども有るのだろう。

 警察の様子をも薄々は探らなければ成らない。又、遠くの所に隠してある自分の資本を取り出しに行かなければ成らない。一夜二夜帰らないのは其の様な場合に違い無い。兎に角、慣れた事だから、小雪も婆やも敢えて怪しみはしない。

 其れは扨(さ)て置き、庭の一方の隅に、毎(いつ)も小雪の腰掛ける台が有る。此の夜も其の台に行き、暫し憩(いこ)うた上、又立って十分間ほど庭を散歩し、再び其の台に帰ったが、台の下の丁度小雪の足の踏む辺に、一個の石が転げて居る。

 小雪は顔の色の変わるほどに驚いた。誰が此の石を持って来たのだろう。今までは確かに無かった。唯十分ばかりのの間に、石が独りで来る筈は無いから、誰かが持って来たのだ。扨ては未だ此の庭に人影が徘徊するのか知もしれない。

 逃げる様に馳せて小雪はここを去った。或いは婆やが、柄に無く悪戯(いたずら)をして、私を驚かすのか知らとも思い、其の部屋を覗いて見ると婆やは居眠りをして居る。庭に出た様子は無い。
 「婆やは今夜庭には出なかったの。」
 婆やは、居眠りなどはして居ませんと言う様に顔を揚げて、

 「乾し物は日の暮れない中に取り込みました。夜露に濡らす様な事は致しません。」
 翌朝になり、まだ怪しさの念が消えないので、昨夜の腰掛の所に行って見た。気の迷いでは無い。石は依然として其所に在る。けれど昨夜の様に恐ろしくは感じない。夜見て恐れの本と為る者は、昼間見れば大抵は笑いの種だ。

 昨夜何故に是が恐ろしかったのだろうと、却(かえ)って合点の行かないが多い。併し何人がここへ石を持って来たのだろうと未だ不審である。其れに何の目的に出たのか、小雪は其の石を、邪魔にならない方へ押し遣(や)ろうと、両手を当てて転がした。

 是は不思議、石の下から一通の書いた者が出た。もう疑う所は無い。誰かが私に読ませる為に、石を私の邪魔と為る所へ置き、其の下へ手紙を伏せたのだ。
 取り上げようか。取上げまいかと、暫しがほど躊躇した末、取り上げた。

 何の念慮の有る訳では無い。唯好奇心に駆られてのことだ。取り上げて見ると、封は有るが糊は付けて無い。宛名も無い。署名も無い。注意して綴じ合わせた幾枚の紙へ、細かな美しい筆の蹟(あと)で、何事をか認めたものである。



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