aamujyou111
噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳 *
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噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史 訳
百十一 愛の天国
気絶した様に倒れる小雪を、守安は驚いて抱き留めた。小雪の身体は両手の間に落ちた。
小雪は勿論夢中である。守安の方も自分が何をして居るやら覚えて居ない程であった。覚えずに小雪を台の上に横たえ、覚えずに介抱したが、人は如何に甲弱(かよわ)くても、嬉しさの為に死ぬ者では無い。
悲しんで死ぬ事は有っても、喜び死ぬ事は無い。小雪は死にはしなかった。イヤ気絶さえもしては居なかった。唯だ一時、気が遠くなったのだ。介抱せられて直ぐに我に返ったが、其の返った時は守安と固く手と手を握り合せて居た。
アア此の二人は、天がこの様になれと言って、特別に繋ぎ合わせて作った者では無いだろうか。そうで無ければ、こうまで打ち解ける筈が無い。二人ともに他人と双(なら)んで居る様な気はしない。自分が自分と双(なら)んで居る様な気がして、何っ方(どっち)が自分の身であるかを知らない。
暫(しば)しの間は世間をも人間をも時間をも、総て打ち忘れて唯語り合った。何事を語ったか人も知らない。自分も知らない。唯其の一語一語に双方の嬉しさが往き通うのみである。
愛の天国とは此の様な場合を指すのだろう。
幾時の後に小雪は初めて問うた。
「貴方のお名は。」
守安「守安、したが貴女は」
小雪「小雪」
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