巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳       

   百十七  死に場所が出来た

 全く戎瓦戎の家は空である。守安の驚きは察するに余り有りだ。
 何うしただろう。戎瓦戎は小雪が一昨夜守安に話した通り、既に小雪を引き連れて、英国へ向け出発したのだろうか。其れにしては聊か早や過ぎる。
 イヤ出発したのでは無い。出発の準備に先づ転居したのだ。
 何故、何故。
 アア彼は転居しなければ成らない訳が沢山にある。

 第一は過日、彼、新聞紙の上で手鳴田一味が牢を破って出た事を読んだ。何と無く彼は不安を感じた。のみならず彼は夕方の散歩の途中で、手鳴田の姿を見受けた。自分は直ぐに身を反(かわ)して、幸い彼れに認められはしなかったけれど、何と無く我が身に禍いする大敵が、現われた様に感じた。

 勿論今居るブルメー街の家は、手鳴田に知られては居ないけれど、ヂャック寺の付近だと言う事は知られて居る。何時尋ね当てられて復讐を受けるかも知れないのだから、少し離れた所へ身を隠さなければ成らない。

 第二に、此の頃は民間一般に政府を恨む声が高く、其所(そこ)にも此所(ここ)にも、一揆を起こす準備や革命の企てが有って、政府の探偵が非常に厳しい、何事に就けても探偵の厳しいのは、戎の様な世を忍ぶ身には不安心である。探偵の傍杖(そばづい)を食って、自分の身の素性を警察に知られる様な事と為っては大変だ。此れが為に彼は、到底此の国には居られないと思い、一時英国へ避けて余温(ほとぼり)を抜く外は無いと決心し、既に小雪にも英国行きの旨を伝えたのだ。
 併し是だけでは無い。

 第三に、彼は或朝、自分の庭の中を散歩して、一枚の名札を拾った。表には本田守安と記し、鉛筆で宿所を書き入れて有る。是れが何よりも深く彼を驚かした。誰も入り込む事の無い此の庭に、名刺(なふだ)が落ちて居るとは何う言う訳だ。入り込む人の無いと思うのは何かの間違いで、誰れかが人知れず入り込むに違い無い。イヤ誰かと言っても誰でも無い。此の名札の主の本田守安と言う者が入り込むのだろう。

 抑々(そもそ)も此の者は何者か。何の為に入り込むのか。其の仔細は更に分からないとは言う者の、満更分からない訳でも無い。曾て小雪が夜々此の庭に忍び込む人の有る様に疑ったが、其の疑いが事実で有ったのでは無いだろうか。其の時には庭を検(あらた)め、煙突の影を見て、単に小雪が此の影を人の影と見違えたのだろうと、戎自ら説明して事済と為ったけれど、今から思うと何うも事済みとは為って居なかったのだ。

 煙突の影と思ったのが、其の実そうでは無かったかも知れない。此の様に考えて見ると其れから其れと過ぎ去った事を思い出し、曾て公園から小雪の後を尾けて来た、若紳士の事までも思い出した。若し彼の若紳士が此の本田守安と言う者では無いだろうか。彼が今以て小雪に何等かの通信を試みるのでは有るまいか。アア何うもそうらしい。

 こう思い始めると、戎の胸は、掻き乱される様に痛みを覚えた。手鳴田の復讐よりも、警察の探偵よりも、此の一事が最も気に掛かる。其れは何故だろう。何故でも無い。戎の身に取っては、小雪の身が自分の身よりも大事なのだ。他人に小雪の心を奪われるのは、自分の財産を奪われることより、イヤ自分の一命を奪われるより辛い。

 戎は小雪が毎夜守安と手を取り合って腰を卸すその腰掛の前を通り、垣根の傍まで行ったが、余り心が動いてもう歩む事が出来ない。其所に在る石の上に腰を据え、首を垂れて独り倩々(つくづ)くと考えて居ると、自分の足許へ、チラリと人影が落ちた。ハッと思う間に其の人影は戎の背後の方へ隠れ去ったが、其れと同時に戎の目の前へ一片の紙切れが落ちた。戎は取り上げて見ると、鉛筆で、女の子でも書いたかと言う様な文字で、
 「早くお引越し成さい」
と書いてある。

 戎は之を天の警戒(いましめ)の様に感じ、直ぐに跳ね起きて垣の外を見ると、色の青白い姿の小さい職工風の汚い若者が後をも見ずに立ち去る所である。此の若者は抑々(そもそ)も何者、戎は知らないけれど、実は若者では無い。女である。昨夜此の垣の外で、手鳴田等の一味を遮り留めた、彼の絵穂子である。絵穂子が職工の服を着けて居るのは誰かから貰ったので有ろう。

 彼女は聊(いささ)か憐れむ可(べ)しだ。唯だ守安を思うのみの為に、蔭に成って守安を守護し、此の家を守護している。此の家に何か危険が有ると知って、紙切れを以て戎に警戒を与えたのだ。
 戎は此の日の中に此の家を引き払った。兼ねてアミー街へ、別の家を借りてあるのだから、直ぐに其れへ引き移った。其所で用意をして続いて英国へ立つ積りである。
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 そうとも知らずに守安が茲へ来たのは、此の翌夜だ。彼は小雪が毎(いつ)も居る筈の、腰掛の所に居ないのを見て、限り無く失望し、幾時か気を永くして待った上、小雪の部屋の窓下に行き、中の様子に耳を澄ましたが、寂然(ひっそり)として声も無い。戸の隙間から、洩れる灯光(あかり)の影さえ見えない。

 尋常事(ただごと)では無いと知って、果ては大きな声を立てて小雪の名を呼んだ。勿論返事は無い。遂に悟った。既にここを引き払って、小雪は英国へ立ったのだと。彼は全く絶望した。そうでなくても、実は桐野家の老主人より侮辱に等しい言葉を聞き、もう小雪と夫婦になる道さえも絶えた事なので、既に全く絶望して、言わば死に物狂いの考えを以てここへ来たのだから、早や小雪の去ったと知って絶望は二重になり、もう自殺する外は無いと決心した。自殺して此の世の苦しみから逃れるのだ。

 守安の気質では、決して自殺が難しくは無い。其の上此の日は、朝から既に、町の所ろ所ろで一揆が起こり、官兵と衝突して市街戦を初めて居たので、守安がここへ来る前から、鉄砲の音や歓呼の声が雷の様に響くのを、幾度も耳に挿んだ。唯恋の奴隷と為って居る為、其の方へ気が移らなかったが、是から行って其の一揆の群に投じ、戦死すれば好いのだ。

 軍人中の軍人と言われた本田圓の息子だから、父の憎んだ今の政府と戦って命を捨てれば本望だと、咄嗟(とっさ)の間に思い定めて、彼は又庭の外に出た。彼の眼は闇の中に光って居る。其の血走った様子さえ察せられる程である。彼が一足歩むと、背後から嗄(しゃが)れた声が聞こえた。
 「守安さん」
 確かに絵穂子の声である。続いて聞こえた。

 「貴方のお友達、ABCの人達は、サン・デニスの町へ砦を作り、討ち死にの覚悟で貴方を待って居ませすよ。」
 守安は振り向いたけれど絵穂子の姿は見えない。守安は暗がりで独語した。
 「好し、死に場所が出来た。立派に死んで見せる。」



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