巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百二十四 軍中雑記 五

      
 父母の因果が子に報ゆとは、今死んだ此の絵穂子などが一例である。
 別に誉める程の女でも無かろうけれど、父母の境遇が境遇だから、此の様な事に成り果てたのだ。若し相当の家庭に育って居たなら、何も人の軒下で此の様に死ぬ事には成らなかったで有ろうに。

 けれど絵穂子は自分の恋慕う人の膝を枕にして死んだ。死んだ其の顔には微かに笑みが浮かんで居た。先ず心だけは満足な往生を遂げたのである。きっと彼女は長(とこ)しえに、守安の膝を枕にした夢を見て、喜んで居ることだろう。

 守安は其の死顔を見て二度三度嘆息した。彼れは大変な約束を持って居る。此の死に顔に接吻しなければ成らない。是れをするのは小雪に対して不実に当たるのでは有るまいか。けれど彼は絵穂子の額に接吻した。詩人が言うのに、死に際の望みを果たして呉れれば死骸でも良く其れを感ずると言う事だ。
 絵穂子の死骸は果たして此の接吻を感じたで有ろうか。何だか知らないが、其の顔の笑みが一層深くなった様に見えた。守安は目を塞いで立ち上がった。

 彼の心には、今、気に掛かって成らない一物が有る。其れは此の絵穂子の衣嚢(かくし)から受け取った手紙で有る。多分小雪が寄越したのに違い無い。早く読み度い。けれど真逆(まさか)に絵穂子の死骸の傍で読む訳には行かない。ここで読むのは罪な事の様に感ぜられる。

 其れに絵穂子の死骸をも此のままに捨てて置く訳には行かない。彼は思案しつつ堡塁(砦)に帰り、人に命じて片付けさせた。そうして物蔭に行き、彼の手紙を開いた。果たして小雪の手紙である。昨日ブルメー街から引っ越すに当たり、取り敢えず此の事を知らせようとして書いたのだ。

 其の文言は、
 「ベレリー街十六番近平氏方にて本田守安様
 恋しき君よ。悲しや父は直ちに引っ越すこととなり申し候。取り敢えずアミー街七番地に落ち着き申す可(べ)く、其の所にて用意を調(ととの)え。一週間の中に英国へ渡る由を只今申し聞かされ候。
  七月四日     小雪  」
と有る。

 一週間の中に婚礼の手続きを運んで呉れとの意が、文字にこそ無いものの、文字の裏に潜んで居る様に守安は感じて、幾度も手紙の面に接吻した。
 何うして此の手紙を絵穂子が預って居たかと言えば、多分絵穂子は半ば嫉妬の心から、絶えず小雪の家の辺りを徘徊して居たのだから、小雪はそうとも知らず、通例の貧民の様に思い、之を托したので有ろう。

 守安は幾度も読み直して考えた。けれど是が為に自分と小雪との間に関所が無くなって了(しま)う訳では無い。何うしても小雪と婚礼する道は無いのだから、自分は矢張り死ぬ外は無い。彼は却(かえ)って益々自分の死を早める心になり、やがて手帳を取り出して、紙を引き裂き、
 「余は本田守安なり、余の死骸は貴族桐野家へ運び行き、余の祖父に引き渡さるべし。」
との遺言を認め、死んだ時に直ぐに検死者の手に渡る様に、腰の衣嚢(かくし)に之を納めた。爾して次には又、小雪へ返事の手紙を書いた。

 「小雪嬢よ、余の祖父が到底承諾せざる故、余は御身と婚礼する道を失えり。余は御身の前にて吐いた言葉を守り、是よりここに死するなり。去れど嬢よ、余の魂は御身の傍に行き、絶えず御身の為に幸いを祈る可(べ)し。」

 こう書いて扨(さ)て誰に持たせて遣ろうかと考えたが、アアそうだ、小僧三郎に托すれば好い。彼は絵穂子の弟である。手鳴田の息子である。手紙を持たせて此の砦から去らせれば、彼の命を助ける事にも当たるのだ。一挙両得と言う者だ。

 直ぐに守安は小僧を尋ねて、其の使いを言付けた。小僧は少し考えて、
 「貴方は私の命の親です。恩人の言葉には背かれませんが、其れでも今去っては国家の為に戦死する事が出来ません。」
 小僧は飽く迄も革命家の口吻(こうふん)《口ぶり》を学んで居る。

 守安「今夜、此の手紙を持って出て、明朝宛名の所へ届けるのだよ。今夜は先刻敵が退却したから、押し寄せる事は無い。」
 小僧「では明朝持って行きましょう。此の堡塁に不慮の変の有った時、小僧一人と雖もです。」

 守安「イヤ今夜は押し寄せはしないとは言え、段々に敵の配置が厳重になる。明朝では抜け出る事が出来ないかも知れない。」
 小僧は一考して、
 「そうだ、吾々の首領エンジラが、先刻貴方を今から我が党の大将だと言いました。大将の命令に背く者が有っては軍規が紊(乱)れる。小僧は直ぐに行きましょう。」
 言葉の終わると同時に飛んで去ったのは、何と言うきびきびした奴だろう。


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