巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百二十六 軍中雑記 七

      
 戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)は守安の手紙を小僧の手から受け取った。此の受け取り方が果たして正直な仕方だろうか。戎の日頃の心掛けに対して自ら恥ずかしくは無かろうか。 彼は日頃の心掛けなどと言う事を全く忘れて居た。自分のする事が正直で有るか無いかなどの懸念は毛頭も心に浮かばなかった。イヤたとえ浮かんだとした所が、自分で自分の身を如何ともすることが出来なかった。

 是ほど彼は小雪を愛して居るのだ。愛の為に嫉妬が出て嫉妬の為に目が眩み、是非も善悪も考えて居られない場合と為り、唯何でも彼でもと言う様に、分別も思慮も無く、殆ど夢中で手紙を横取りして了(しま)った。

 受け取って彼は自分の部屋に入り硝燈(ランプ)の下に開き読んだ。何も彼も合点が行った。全く小雪は守安と言う者と夫婦の約束までして居るのだ。此の様な意外な事が有ろうか。戎は腹の中が煮え返る様な思いで、顔も紫色と為った。アア戎よ、汝が曾て受けた聖僧ミリエルの大感化は最早汝の身に消えて了ったのか。余り情け無いでは無いか。

 汝が今までの月又月、年又年に、辛苦し艱難し自分で自分の身を詰めて唯だ正直に、唯慈悲深くとのみ勉めたのは、此の様な場合にも、将(は)た又何の様な場合にも、人間の道を踏み外すまいと期する一念の為では無いか。六十年の今に及んで、年又年の難行苦行を水の泡には為して了うのか。小雪と言う一少女の愛の為に、イヤ愛に似た痴情の為に、アア戎よ汝は痴情である。汝自ら、今は自分の心中を考えて見る遑(いとま)が無くとも、痴情より外では無い。自分で痴情と言う事を悟らないだけ汝は既に堕落して居る。

 戎は手紙を掴み破ろうとした。けれど又読み直した。事柄は益々明白だ。守安と言う少年が小雪と婚礼したいけれど父の承諾を得られない為に婚礼が出来ないのだ。此の心は割合に正直である。そうして其の絶望の為に軍(いくさ)に加わって命を捨てに掛かって居るのだ。手紙は即ち其の暇乞(いとまごい)である。

 誠に戎にとっては是ほど都合の好い事は無い。此の手紙を握り潰せば其れで何事も円満に治まるのだ。一旦軍中に投じた守安が、生きて逃れ出る筈は無く、多分今夜の未だ明けないうちにも冥府(あのよ)の人と為るだろう。戎は小雪を連れた儘(まま)で外国へ行けば好い。其れで無くとも彼は外国へ行く積りで居るのだ。

 小雪にも其の事は言い聞かせて、既に其れ其れの用意さえ多少は運んで有る。アア戎が此の手紙を横取りした為め、何も彼も自分の為に都合好くまとまって了う事には成った。
 そうさ。都合好く纏(まと)まっては了(しま)うけれど、其の代わり戎の値打ちは其れ切りで無くなるのだ。

 聖人にも成った程に思われた戎が、唯の俗人になって了い、若し神の目から見れば昔の戎と何の違いも無い事になるのだ。彼は此の事を知って居るのか。
 心の中は分からないけれど、彼は暫(しば)し手紙を見詰めた上で、翻然と悟った様に跳ね上がった。
 「エエ」
彼は悔し相に呟いて起(た)ち、暫(しば)し部屋の中を見廻したが、直ぐに一方の箪笥(たんす)を開き、其の中から取り出したのは護市兵の制服である。

 彼は以前から護市兵の服を持って居る。市民として之を持たなければ市民で無い。彼は公権の無い身分で、市民とは云われないけれど、彼は市民の様にして居る。市民のする丈の事は行って居る。其れに姿を替える為から言っても、この様な制服の必要が有って、其れ故前から用意して置いた。何の為だろう。此の服をさえ着けて居れば、今夜の様な物騒な晩でも、警官や官兵に咎められずに町を何処へでも行く事が出来るのだ。彼は直ぐに家を出た。彼は何処へ。何をする為に、行く積りだろう。



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