aamujyou128
噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳 *
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噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史 訳
百二十八 軍中雑記 九
▲其十二 戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)塁に入る
此の老人は無論戎瓦戎だ。無論守安は知って居る。白翁として、小雪の父として。
首領に向かい守安は直ぐに答えた。
「ハイ、知って居ます。」
守安の一言は誰の紹介よりも力が有る。首領エンジラは喜んで、
「吾が党の老勇士」
と戎を呼んだ。先刻の真部老人の勇ましい死様が未だ首領の目の前に残って居るから猶更(なおさら)老人を敬う心が出たのだろう。
其れにしても戎は何の為にここへ来た。守安と同じく絶望の為に死ぬ積りだろうか。外に目的が有るのだろうか。追々に分かって来る。併し戎は守安の顔を見ない。イヤ見ない振りである。直ぐに今選ばれた五人を助け起こし、殆んど自分の子をでも扱う様に、其々制服着せて遣って、急がせて立去らせた。此の行き届いた振舞いは一同の好意を得たらしい。
▲其十三 小僧の最後、守安の感慨
間も無く夜は明け始めた。町の二十七カ所に在った堡塁が段々に落ちた為め、ここへ集まる官兵が追々に殖え、五時過ぎから攻撃が始まった。
此(こっち)は只(たっ)た四十二人、其れに戎が一人加わって居る。少数とは言え仲々に良く戦ったが、敵は大砲をさえ引いて来て堡塁の一角は打ち毀(こわ)された。
是がもう全くの最後だと、一同は血眼で崩れた堡塁を睨んだが、大砲の響きが鎮まると共に、其の崩れた一角の上に身を現し、
「心得た。心得た。」
と敵へ返事する様に叫んだ一人が有る。煙と塵(ちり)とに包まれて其の姿は良く見えないけれど、声は確かに小僧三郎である。彼は堡塁の外から這い上がって来たのだ。
守安は驚いた。折角彼を助ける積りで、手紙を持たせて外へ出したのに、又帰って来た。
「コレ小僧」
と守安は呼び下ろし、
「汝は手紙を届けたか。」
小僧「令嬢はお休み中ゆえ玄関番に渡しました。程なくお目覚めでご覧なさるでしょう。」
扨(さ)ては直々には、小雪の手へは入らなかったのかと、守安は聊(いささ)か不満足の感も有る。又思うと小雪の父が此の堡塁へ来たのも、何か其の辺の為では無かろうかとの疑いも起こる。
「小僧、汝はあの老人を知って居るか。」
とて戎瓦戎を指示したが、小僧は夜中で有った為め其の顔を覚えて居ない。
「イイエ、知りません。」
そうすれば翁が茲へ来たのは手紙を見た為では無く、唯革命に賛成する為だろうと聊か安心の想いをして、
「其れにしても汝は、何だって此の塁へ帰って来た。」
小僧「我が党の危急存亡を見るに忍びずです。」
守安「コレ生意気な事を言うな。もう我が党は弾丸さえも尽きたのだから、汝の様な者は邪魔に成る。早く何処へでも行って了(し)まえ。」
小僧「聞いては益々小僧の働き時です。弾丸は私が調達します。」
と言いつつ彼は塁の一方の隙を潜り、弾丸雨中の所へ出て、敵の死骸の携帯して居る弾を取り、其の上着を剥ぎ取って之を包み、急(忙)しく塁内へ運び入れ、又出でて又取り入れ、殆んど飛鳥の様に立ち廻るのは、何と言うきびきびした奴だろう。けれど彼は終に塁の外で敵の丸(弾)に中って倒れた。
倒れて直ぐに起き上がったけれど、立つことは出来ない。腹の辺から血が迸(ほとばし)って居る。彼は大地に座したまま、「共和党万歳」と叫んだ。そうと見て直ぐに守安は飛んで出たが、もう間に合わなかった。二度目に来る弾が彼の眉間を射て彼を倒した。アア此の様にして大胆な町の子は此の世を去った。
守安は其の死骸を抱き上げ、
「オオ三郎、許して呉れ。汝の父の手鳴田は、此の守安の父を、硝煙弾雨の中から抱き出だして助けて呉れたと言うのに、守安は手鳴田の息子を死なした。僅かに其の死骸を抱き去るのだ。」
と言い、小脇に挿んで悠然と塁に入った。敵は此の姿を目掛けて、丸(弾)見を注ぎ掛ける程に発射したけれど、死を決した人には弾丸が当たらない。
▲其十四 老勇士の手柄
愈々(いよいよ)一同の最後とは成った。塁の落ちるのはもう少しの間だ。首領エンジラは生き残る人々を点検し、
「もう家の中へ入り、最後の抵抗を試みる外は無い。サア一同、町の敷石を剥がし、此の酒店の戸口へ塀を積むのだ。」
直ぐに一同は其の命に従ったが、何人も動かす事が出来ない程の大石を、手玉に取る様に引き起こし、五人前も十人前も働いたのは老勇士戎瓦戎の怪力だ。此の時早や、既に向こう側の屋根の上に上って来る敵兵の頭が三人見えて、屋根から見下ろして射撃する積りなんだ。エンジラは之を睨み、
「エエ癪に障る官兵どもだ。」
と切歯扼腕(せっしやくわん)《歯を食いしばり、腕を握り締めて悔しがること》した。
此の語を聞くやいなや老勇士は忙しく四辺(あたり)を見廻したが、他の人々が石を運ぶ為に、銃を片側(腋)に立て掛けてある。彼は其の中の一挺を取るより早く屋根を目掛けて発射し、先に立つ官兵の制帽を射飛ばした。此の狙いが若し一寸低かったなら三人とも一様に眉間を射貫かれる所だった。けれど敵は三人とも肝を冷やして引き退き、更に其の後に続く幾十人も皆屋根から転げ落ちた。首領は感嘆して叫んだ。
「抜群の功、抜群の功」
▲其十五 戎瓦戎と蛇兵太
少しの間に家の前は堅固な石垣が出来た。エンジラは戎を招き先ず家の中に入った。此の様な勇士を自分の傍から離し度く無いのである。家の中は既に眷属(けんぞく)《一族》悉く逃げ去って、残るのは隅の方に、高手小手(たかてこて)《人の両手を後ろに回し厳重にしばりあげること》に縛られた彼の巡査部長蛇兵太のみである。エンジラは之に向かい、
「もう此の塁が落ちますから、愈々貴方を射殺して上げる時が来ました。」
蛇兵太は泰然として、
「有難う御座います。」
言いつつ戎と顔を合わせた。双方共に驚いた。只だ其の色を面に示さないのだ。戎はエンジラに向かい、
「首領、私に若し手柄が有るなら、何うか其の褒美として、此の者を射殺する役を私へお命じ下さい。」
首領「宜しい」
蛇兵太は歯を噛みしめて口の中で、
「アア此奴が己(俺)を射殺し度(た)がるのは当然だ。」
全く当然である。今まで苛(いじ)められた事を思うと、切めてもの腹癒(はらいせ)だ。
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