巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou137

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百三十七 哀れ戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん) 五

 世には恐ろしい事も数々あるけれど、底無しの沼に踏み込んだほど恐ろしことは余り無い。悶(もが)けば悶くだけ、其の身が沈むのだ。
 仏国(フランス)のノルマンデーの海辺には底無し沼が沢山ある。何うかすると旅人などが之に陥る。荷物を積んだまま馬や車などの落ちることも有る。落ちたが最後、もう助からないのだ。右の足を抜こうとすれば左の足が沈み、左を抜こうとすれば右が沈む。一寸、一寸に沈んで行って、終に身体全体が泥の底に呑み込まれて了(し)まう。今、戎瓦戎が丁度此の底無し沼に立って居るのだ。

 尤もノルマンデー付近の底無し沼は、沼では無い。砂っ原だ。何故かと言えば、風が海辺の砂を吹いて行って沼の上一面を蔽(おお)うのだ。其れだから本当の砂地と底無し沼との区別が分から無い。砂地の積もりで安心して歩いて居ると、次第に下が柔らかになり、足が重くなって来る。けれど其の変化が自然だから、歩んで居る人は気が附かない。愈々気が附く頃にはもう、退ッ引き(のっぴき)ならないのだ。

 少しづつ地盤が柔らかになって、終に足を四、五寸(約15cm)も踏み込む所がある。サア大変だ。オヤ底無し沼に踏み込んだのか知らと、驚いて背後へ引き返そうとしても無益だ。泥が片足を捕らえて居る。其の有様は鳥糯(とりもち)に捕らはれた鳥の様な者だ。沼の泥は 鳥糯よりも粘り。鳥糯よりも力が有る。

 そうして泥は底に行くだけ柔らかだ。砂を被った上皮を一枚踏みやぶれば、下は踏み応へが無い。重さのある者ならなんでも沈む。之が若し水ならば泳ぐことが出来る。泥は人の泳ぐを許さない。
 何にかして身を抜かなければ成ら無いと人は悶(もが)く。余り深く沈まないうち逃れ出なければ、益々沈んで益々逃れ難くなるのだからと、誰れも必死の力を尽くすが、力は何の甲斐も無い。強い人も弱い人も悶がく人も悶がかない人も、一様に沈んで行く。少しづつ又少しづつ。是れほど気味の悪い死様は無い。

 五六寸の泥が膝まで来る。腰まで来る。こうなると最早や自分の身は重さを減ずる外は無いと、持って居る品物を投げ棄てる。宛も難破船が、積荷を海へ投げ棄てる様な者である。けれど悲しい哉何の功も無い。腰までの泥が臍まで来る。乳まで来る。もう絶望して、声を限りに人を呼ぶ。呼んでも来る人が無い。何の様な慈善家が此の声を聞き附けたとしても、是ればかりは見殺しにする外は無い。

 助けに行けば共々に死ぬのだ。
 乳の上、腋の下まで没するに至っては、もう絶望して神を呼ぶ。呼んでも答えない。憤激して罵詈悪口を神に加える。其の中に肩も沈み顎も沈み、一生懸命に仰向いて顔だけ出そうとしても無益である。泥は間も無く顔を埋めて、唯だ髪の毛だけが、水田の様に、表に苗の尖(さき)が出て居るけれど、やがて其れさえ見えなくなる。

 此の辺に住む村人どもは、何うかすると沼の上に帽子の浮いて居ることを見る。人は沈んで帽子だけが助かるのだ。其の度に彼等は、
 「又誰か沈んだと見える。可哀想に。」
と言って念仏一遍を唱えて去るが、帽子の下幾十丈に沈んだ、其の持ち主の耳には達する筈が無い。此の様にして死んだ人の亡魂は何うして慰められるだろう。
 (訳者曰く、余が曾て訳したる小説「梅花郎」にも底無し沼に死する一紳士の事を詳しく記したり。)

 是より辛い死様は到底世に有り得ないとは言え、若し有るならば、其れは戎瓦戎の今の有様だ。彼は天の色をさえ見るに見られない暗渠(あんきょ)《地面の下の樋》の中に於いて、底無し沼に沈むのだ。もう泥は腰まで来て、水は顎に達して居る。其れでも彼は捨てない。捨てたくても捨てられないのだ。助ける積りでここまで擔(かつ)いで来た守安の死骸だから。

 嗚呼戎の此の偉大な精神は、誰が知って居るだろう。彼は自分の敵を此の様に大切にして居る。敵と共に情死するのだ。汝の敵を愛せよとは、殆んど人間に出来る事で無いのに、其の言葉を戎の様に守る者が何処に有るだろう。

 彼は罵(ののし)りもしない。騒ぎもしない。運命と諦めて唯必死に守安の死骸を差し上げて居る。其のうちに彼は益々沈んだ。顔だけが水面に仰向いている。此の時の彼の顔を若し見ることが出来たなら、唯木彫りの仮面が水の上に浮いて居る様にしか見えなかっただろう。

 併しここで戎を殺すのは余り酷い、戎は神の無い世とは思わない。彼の心は猶(ま)だ神に縋(すが)って居る。全く死に切る時までは、何とかして助かろうと努力しなければ成らない。彼は殆ど動かない足を以て、猶(ま)だ泥の中を探っている。

 微かだけれど彼は爪先に何か堅い者が触れた様に感じた。是れが神の救いで無ければ何が神の救いだろう。これを若し取り逃がしては、到底助かる道は無いと、彼は有らん限りの力を以て其の一物に足の指を掛け、気永く気永く、之を踏まうとした。若し彼の怪力を以てしなければ、此の真似は出来なかったかも知れない。

 けれど彼は、此の一物を踏む前よりも、踏むことが出来た後が辛かった。踏む前は自然の力に従って沈んで居た。踏むことが出来た後は、自然の力に反抗して自分の身を引き出そうと勉めるのだ。何れ程の力、何れほどの苦しみであったかは、記すことが出来ない。唯だ読む人銘々に察するが好い。兎に角も彼れは遂に、自分の身を助けることが出来た。

 堅い一物を踏まえて立つと、此の一物が難い地盤の端であった。少しづつ又少しづつ身を脱(抜)いて前に進み、漸く底無し沼を通り抜けることが出来た。彼は地盤の上に進んで、もう力が尽きた。守安の死骸と共に暗渠の壁に身を凭(もた)せ、暫し何事をも考える事が出来ない状(様)であった。



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