巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou34

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   三十四    傍聴席 二

 思い出すのさえ恐ろしい様な惨憺(さんたん)《酷く薄暗い》たる自分の履歴を、目の前に繰り返して見せられることは、真に運命の悪戯(わるふざけ)である。自分の通りの戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)が、昔自分の立った通りに裁判官の前に立ち、自分を論告した通りの検察官が、戎瓦戎の罪を数えて居る。二十七年前の事が夢で、今此の裁判が真事(まこと)だろうか。今が夢で昔のが真事(まこと)だらうか。イヤ今のも昔のも真事である。

 唯違って居る所は、昔自分の裁判せられた時には、判事長の背後に置物が無かったにの、今此の法廷には判事長の後の棚に、十字架が載って居る。
 アア彼の時の裁判には、神が照臨ましまさなんだ。罪の無い身を罪するとは、世に神は無いものかと疑ったが、今の此の裁判には、確かに神が照臨して居たまうのだ。人の心の底まで見破って、明らかに罪の有る者と無い者とを分かち給うに違いな無い。

 市長は昔し、戎瓦戎が彌里耳(みりえる)僧正の寝室に忍び入ったとき、暖炉(ストーブ)の棚の上に丁度此の様な十字架の載って居た事をさえ思い出した。彼の十字架は、その両の手を差し延べて居るのでは有るまいか。市長は自ずから頭が下がった。

 前には厳めしい裁判の様子を見た。背後には此の十字架を控えて、彼は再び首を上げる事が出来ない。殆ど何人にも我が顔を見られまいとする様に、小さくなって人の底に沈んだ。

 けれど裁判の恐ろしい有様が、一々我が心に襲い入る事を防ぐ事が出来ない。彼は弁護士の弁論をも首べを垂れて聴いた。之に対する検察官の駁論をも聞いた。首を垂れ目を閉じて居る丈に、却ってそれ等の進行の様子が、彌(いや)が上にも物凄く感ぜられる。時々耐(こら)えかねて、顔を上げもするけれど、その背後の十字架も、我が為に特にその著しさを増す様に思われる。

 その中に裁判長の声として、被告に、
 「何か申し立てる事は無いか。」
と問い、被告が何も答えない為、更に念を推して、
 「第一に汝は果物を盗んだか否や。第二に汝は戎瓦戎であるか否やを答えよ。」
と言い添える声も聞こえた。

 被告は卒然と声を発した。
 「私は鍛冶屋の職人。巴里のバルーブと言う馬車屋に、長い事雇われて居ましたが、取る年で仕事が出来ない為め放免せられ、その後は流浪同様の身の上です。日々の食う物が無い為に、途中に落ちて居た枝のままの果物を拾いましたけれど、人に雇われて世を渡るのです。巴里の馬車屋バループ氏へ問い合わせて下されば、私が前科者で無い事は分かりますのに。

 お役人の言うには、その馬車屋は破産して、主人バループ氏は行方が知れないと言う事です。それではもう私の身の照明(あかり)を立てて呉れる人は無いのです。私が自分で前科者で無いと言っても無益です。検察官のお言葉では、その方はフエプロル地方に生まれ、オーバルに居る姉の家で育ったのだろうと仰せられます。自分で自分が誰の児だか、何所に育ったか知りません。

 私の知らない身の上を、検察官は良く御存知です。私をその方は戎瓦戎だと仰せられます。或いは私には其の様な名が有るかも知れませんけれど、誰に名を附けて貰った覚えも無く、自分で自分の戸籍を洗った事も無いのです。小さい時は、
 「此の餓鬼」
と人に呼ばれ、年取ってからは
 「此の爺」
と言われます。何れが本当の名だか分かりませんけれど、自分では馬十郎だと思って居ますが、若し何方(どっち)にか取り極めねば成らないのなら、何うかお上で、篤とお取り調べの上、何方にても、ヘイ、宜しい方へお定めを願います。」

 此の様な憐れむべき者が又と有ろうか。更にその上に此の者を、自分の身代わりとして、自分で思うさえ毛髪の逆立つ様な、重懲役の牢の中へ押し落して済むだろうか。市長は首を垂れたまま動きもしない。誰も気が附かないけれど、殆ど生きて居るか死んで居るか分からない程だ。検察官は、此の異様な陳述を聞き、自分の研(磨)き立てた雄弁の結果も、幾等か掻き消される様に感じたらしい。直ちに立ち上がって判事長に向かい、

 「裁判長閣下、被告は愚人の真似をして、何も彼も、怪しそうな言葉を以て言い消そうとする様子、実に驚くべきほど巧妙です。この様な犯罪の上に、恐るべき天才を持って居る所が、戎瓦戎たる所以だろうと思われます。彼に非(あら)ずして、誰かこうまで明白な罪に対して、更に人心を惑そうと勉めましょう。本官はここに再び、彼(あ)の四人の証人を召し出し、改めて被告の顔を見させる事を請求します。」

 再び四人の証人が呼び出されるのだ。
 幾等幾十の証人よりも唯一人、動かすべからざる大証人が、此の場中に潜んでいることを、誰が知っているだろう。





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