巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou40

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2017.5.10


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   四十   市長の就縛(じゅばく)三

 華子は蛇兵太の姿を見て、全く自分を引き立てに来たのだと信じた。驚き恐れたのは当然である。
 彼女は叫んだ。
 「市長さん、市長さん、何うか私を助けて下さい。」
 全く市長の助けを請う外は無い。市長は静かに傷(いた)わって、
 「ナニその様に恐れる事は有りません。蛇兵太が来たのは、貴女の為では無いのです。」

 こう言う市長の為なんだ。
 市長は更に蛇兵太に向かい、
 「貴方の御用向きは良く分って居ます。」
 蛇兵太は大喝一声、
 「神妙に」
との叱咤を以て之に答えた。
 その言葉は雷の様に部屋中を震わせた。

 真に蛇兵太はその頑迷な心を以って、今は此の市長を終天の敵の様に思って居る。過ぎ去った五年の間、彼は此の市長を疑って、何れほど苦心したか知れない。その末に、自分の疑いが過ちだと信じて、直接に市長に対して罪を謝した。抑(そもそ)も罪を謝すると言う事が、此の蛇兵太に取っては千年の遺恨にも当たるものである。

 単にその職務の上に、少しの落ち度や怠慢が有ってさえ、自ら己れの身を許さない程の厳重な男だから、市長を疑ったその過ちの為に、辞職する決心をまで起こしたのである。それが今に至って、過ちで無かったと分かり、自分が捕縛に向かう役廻りとは為ったので、彼は千載の一遇とも言うべき程に思い、今までの恨みを悉く、之で晴らす気に成って居る。

 彼は部屋の真ん中に大山の如く衝立(つった)ち、市長の顔を睨み詰めて、貧乏ゆすりもしない。  
 そうして再び叫んだ。
 「サア、早く立って来い。」
 勿論市長に向かって吐くべき言葉で無いから、益々華子は自分の事と思い、
 「市長さん、市長さん」
とて泣き声を上げたが、その中に蛇兵太は、市長の首筋を捕らえて、容赦も無く引き立てた。

 市長は抵抗もせず、引き立てられて、力無く首を垂れた。蛇兵太は心地好さそうに嘲笑(あざわら)って、
 「何だ市長さんだと、市長などと言う者はここには居ない。」
 もう無論市長では無い。単に一個の戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)だ。前科者だ。記者も之からは再び彼を戎瓦戎とのみ記さなければ成らない。

 漸くにして戎瓦戎は、願う様な声で、
 「コレ蛇兵太」
と言い掛けた。
 蛇「蛇兵太では無い。巡査部長様と言わなければ。」
 戎は敢えて言葉などを争わない。
  「部長様、貴方へ内密のお願いが有ります故ーーー。」
 蛇「何だ内密、イヤ内密などは許されない。声高く申し述べよ。」
 戎「貴方の外は、誰の耳にも入れられない事柄ですから、何うか内密に。」
と非常に低い声で言って居る。

 蛇「内談などは聞く耳持たぬ。」
 戎は詮方なく、又声を潜め、
 「何うか三日の御猶予を。実は此の憫(あわれ)む可き華子の娘を、引き取って来て遣り度いのですから、念の為貴方が同道して下さっても構いません。費用は私が支弁しまして。」
 殆ど囁く様に請うた。

 蛇兵太は大声に、
 「馬鹿め、その様な願が聞かれる者か。三日の猶予を得て逃亡する積りだろう。此の女の娘を引き取りに行くなどと、口実は旨(うま)いけれど、其の手は食わぬ。」
 華子は此の言葉を聞いて身を震わせた。
 「エ、エ、私の娘を引き取る為に三日の猶予、それでは未だ小雪は、ここへ来て居るのでは無いのですか。小雪は、小雪は今何所に居るのです。小雪を連れて来て下さい。サア、市長さん、斑井様」

 蛇兵太は怒る様に床踏み鳴らし、
 「フム、悪人の片割れが居やがるワ。黙れ悪婆(あくば)。本当に世が逆様だ。前科者が市長に成り、淫売婦が貴婦人の様な看病を受けて居るとは。」
と言って、言葉と共に更に戎瓦戎の首筋を引き緊(絞)めて振り廻し、
 「市長さんだの斑井様など言う者はここには居ない。此奴は盗賊だ。追剥だ。前科者の戎瓦戎だ。それだから此の通り、俺が捕らえるのだ。」

 華子は骨ばかりと見える手で身を支え、起きて其の首を差し伸べ、恐れと驚きと懐かしさを眼に浮かべて、戎瓦戎の顔を覘(のぞ)いたが、之が此の女の身に僅かに残って居た、命と力とを絞り尽くしたと見える。戎の顔を見詰めたまま打ち倒れ、倒れる機(はず)みに寝台の角で、額をも打った。けれど打つ前に、もう事切れと為って居たのだ。哀れ華子は、此の様な状況の中に、この様にして、此の世を去った。

 戎瓦戎はそうと見て、我が首筋に在る蛇兵太の手を捉(とら)えた。頑丈な蛇兵太も、戎瓦戎の力に遭っては、小児よりも弱く見える。瓦戎は其の手を解き放して、
 「貴方は此の女を殺してしまったのです。」
 蛇兵太は益々怒り、
 「何だ、無礼な。サア下に居る巡査を呼ぼうか。それとも尋常に此の手錠に掛かるか。」

 手錠をでも用いなければ、戎(ぢゃん)の様な大力な罪人は、一人の力では間に合わない。戎は無言で部屋の隅に行き、其所に在る古い鉄製の寝台から、一本の鉄の棒を抜き取った。流石の蛇兵太も此の見幕には恐れを催し、戸口の所へまで、三足ほど退いた。戎は鉄の棒を持ったままで、
 「暫しの間邪魔せずに、其所に控えてお在(いで)なさい。さも無いとお身体(体)の為に成りませんよ。」

 言う言葉は静かだけれど、千斤の力がある。蛇兵太は、若し手下の巡査を呼ぶ為に、下へ行けば、其の間に戎に逃げられる恐れもあるから、詮方無くその言葉に従った。戎が何れほど逃亡の名人かと言う事は、彼らの良く知る所である。この様にして、戎は華子の死骸の傍に行った。




次(四十一)へ

a:468 t:1 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花