巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   四十一   入獄と逃亡 一

 華子の死骸の横たわって居る寝台の方へ戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)は近づいた。けれど彼は依然として鉄の棒を持ったままである。若し蛇兵太が邪魔でもすれば、叩き殺すとの見幕が、その落ち着いた陰気な顔に現れて居る。流石の蛇兵太(じゃびょうた)も何うする事もとも出来ない。唯だ戸口の辺りに立って、彼の為す所を見張って居るのみである。

 彼は鉄の棒を杖について、無言で華子の死骸を眺めた。此の時の彼の感慨《身にしみて感じる事》は何の様だろう。言うに言われぬ憐(あわ)れみの色が満面に現れて、唯だ黙然、唯だ暗然として、暫らくの間身動きさえもしなかった。やがて彼は気を取り直した様に、華子の枕許に膝を折り、死骸の首を抱き上げる様にして、その耳に口を当て、細い細い声で、何事をか囁(ささや)き告げた。果たして何事を囁いたのだろう。

 囁(ささや)く方は今牢へ引き立てられる人。囁かれる方は既に此の世を去った身である。両人の間に何の様な黙契(もっけい)《無言の中に気持ちが一致する事》が有ろうとも、口から耳にその情が通ずるだろうか。若し華子が此の囁きを聞いたとすれば、冥府から聞き取ったのだ。此の世の人は誰もその声、その言葉を聞く事が出来なかった。けれど聞こえると聞こえないとに拘わらず、囁く方は是で気が済むのだ。愚痴か迷いか知らないけれど、此の愚痴、此の迷いが、人生の最も崇高な力である。趣味である。信仰である。

 兎に角も、此の様を親しく見て居た看護婦長が、後で幾度も人に語った所に依れば、戎瓦戎が囁くと共に、華子の死に顔に、一種の神々しい笑みが浮かんだと言う事である。此の看護婦長は尼さんである。深い宗教の信仰に生涯を捧げて居る人だから、嘘は吐(つ)かない。何の様な事が有ったとしても、無い事を有るとは言わない。或いは全く戎瓦戎の親切な言葉が、華子の霊に通じたかもしれない。

 華子と戎瓦戎の様な、意気の相合し、同情の相結ばれて居る間柄には、死後と雖も霊犀一脈(れいさいいちみゃく)《人の意思が通じ合うことのたとえ》のその情が、通ずる所が有るかも知れない。
 この様にして、戎瓦戎が自分の顔を退(ひ)いた時には、全く華子の顔がその前とは違った様に美しく成って居た。是は戎がその開いた眼を撫で卸して閉じて遣り、額に掛かった、短い髪の毛を撫で上げて遣り、そうして傾いた枕をも直して遣りなど仕た為でも有ろう。

 全く華子は天国に登った人の様に、顔が輝いて居る。思うに、人の死ぬと言う事は、更に明かるい所に出ると言う事かもしれない。戎は更に華子の冷たい手を取って、之を戴いた。戴いた後で、懐かしい人に分かれる様に、その手を接吻した。是で戎の勤めは済んだ。此の様な人に、こうまで親切にせらるれば、華子に若し霊あらば、深く感ぜずには居られないだろう。

 此のようにして戎は静かに立った。そうして此の方なる蛇兵太に向かい、
 「サア、命令に従いましょう。」
と言った。
  *    *    *    *    *    *
  *    *    *    *    *    *
 直ぐに戎瓦戎は、此の市の監獄に投ぜられた。追って中央の監獄に移されのである。無論市中の驚きは並大抵ではなかった。市長の捕縛、市長の捕縛と、口から口に伝わったが、彼は前科者で有った。偽名を以て此の市民を欺いて居た。

 本名は戎瓦戎と言うのだと、様々に語り合う噂が、彼の今までの功労を掻き消してしまった。今まで甚(ひど)く彼の功徳や善根に服して居た人までも、
 「そうだろうよ。身分不相応に得た金で無ければ、彼(あ)あまで人に施す事は出来ない筈です。」
などと言い合った。

 人情の反覆(はんぷく)《裏切り》、手を反(かへ)すが如しとは、此の様な事を言うのだろう。
 けれどこの様な中にも、彼に忠実な者は有った。その一人は彼の家に雇われて居る老女である。 

 老女は主人の入牢を聞き、驚きも呆れも泣きもしたけれど、一旦驚きが収まっては、唯主思いの一点で、昼も陰膳を据え、夜に入っても、毎(いつ)も主人が役所から帰って来て、二階の部屋へ行く時に、取って行く居間の鍵を、常に掛ける柱時計の下に懸け、若しや主人が常の通り帰って来たとした所で、小言一つ言われる点の無い様にし、自分は孤燈の影に針仕事をして居た。

 こうまで忠実に勤務するのは、全く主人の薫陶に出た事だろう。早や夜の八時とは成った。普段ならば、もう遅くても門の大戸が開いて、主人の足音の聞こえる頃であるのに、その音のしないのが、非常に物足らない様に思われ、殆ど心細さに耐えられない。良(やや)あって、部屋の一方に在る時計を見ると、時計の下へ懸けて有る主人の居間の鍵をば、外の戸を開いて、手を差し延べて取らうとして居る者が有る。 

 門の大戸が開かないのに、何者が何うして入って来たのだろうと、老女は非常に驚いて、殆ど叫び声が口まで出た。けれど叫けびはしなかった。鍵を探るその手首、その袖口、確かに見覚えがある。我が主人である。
 「オヤ旦那様ですか。」
と押し伏せた様な低い声で言うと、
 「婆や、静かにおし」
と言って、音もさせず戸を開いて中に入ったのは、全く主人である。昨日までの斑井市長、今の戎瓦戎である。彼は先刻牢に入ったばかりだのに、何うしてここへ現れたのだろう。その得意の術を以て、牢を脱しで来たのである。





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