巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   四十二   入獄と逃亡 二

 老女は戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)の顔を見て、
 「旦那様は今朝からーーーー」
と言い掛けたが、その後の語は余りに失礼に当たると思って控えたのか、口から出なかった。戎(ぢゃん)は自らその語を補足して、

 「オオ私は今朝から牢の中に居たのだよ。今夜牢の窓の鉄の棒を取り外して、其所(そこ)から忍び出て、屋根を飛び降り、そうして此の通り帰って来たのさ。」
 全く彼は、昔ツーロンで四回まで逃亡を企てた、その得意の手段を以て、牢を破って出て来たのだ。けれど彼は落ち着いて居る。その言葉の静かさが、直ぐに背後から捕吏に追跡せられて居る人とは見えない。彼は余程の決心を持って居るに違い無い。

 彼は更に老女に言った。
 「直ぐに尼さんを呼んで来てお呉れ。多分尼さんは、今朝亡くなった女の死骸の傍にまだ祈って居られるだろう。」
 尼さんとは、彼の看護婦長だ。死骸とは華子を指すのだ。老女は畏(かしこ)まって、無言で去った。後に戎は鍵と手燭とを取り、火を点(とも)して二階の自分の部屋に登った。

 先ず燭台に火を移し、そうして窓から町を眺めた。町には多分追っ手の役人が駈け廻って居ることだろう。もう戎瓦戎の脱牢と言うことが、彼の蛇兵太の耳にも入ったに違い無い。戎は更に、灯光(あかり)が外に洩れない様に窓の戸を締め、自分は手燭を持ったままで、奥の間に入った。ここは一昨夜、彼が自首の決心を起こす前に、徹夜して煩悶した所である。彼が昔ツーロンの獄を出てダインの高僧の家に入った時に着た着物も、野原で子供から奪った銀貨も、ここに在るのだ。

 彼は紙を展(の)べ、筆を取って、
 「此の品々は、私戎瓦戎が昔身に着けていた者にして、銀貨はダインの野にて、子供から奪ったその銀貨に御座候。」
と書いた。こうして置けば、今ここへ捕り手が来て、没収して行って、其々(それぞれ)法律通りに処分して呉れるのだ。

 書き終わった所へ足音がして、下から誰か上って来た。別人で無い。今しも老女が迎えに行った尼御である。此の人は、憂世の人の情を捨ててから、既に何十年、読経と苦行とに心を練り、身を神に捧げて、慈善の業に従事し、今は人にして人の弱点を脱し、唯神の道をのみ守る身の上では有るけれど、憐れむべき戎瓦戎の、今の境遇を察しては、古木の様な心にも、無限の悲しさ、哀れさが湧き出たと見え、顔も青く目も重い。そうして震える声で、

 「もう一度、彼(あ)の女に逢ってお上げ成されますか。」
と問うた。彼(あ)の女とは無論華子の死骸なんだ。戎は手早く次の書類を認め掛けて居たが、立ち上がって、
 「イイエ」、彼(あ)の部屋へ行けば、又捕縛せられる許かりです。死骸の傍で騒動するのは罪ですからもう行きません。」
と言い、更に今書いた書類を差し出し、

 「私の居無くなった後で、之を教会の主にお渡し下さい。」
 一種の書き置きの様な者だろう。尼御は無言で受け取った。
 戎「何うか貴女が、一応読んでお置き下さい。」
 尼御は非常に従順に、開いて読んだ。その文は、
 「此の家屋及び付属する財物一切、恭(うやうや)しく教会へ寄付致し候(そうろう)間、私の裁判の費用と、今朝死去せし華子と言う女の葬式を支払い、その残りは悉(ことごと)く貧民へ御施(ほどこ)し下され度(た)く候。」
とある。

 僅かに読み終わる時しも、下の部屋から尋常(ただ)ならぬ人の声と、物音とが聞こえた。戎は手燭を持ったまま。何事かと階段の傍まで行った。尼御も其の後に従った。
 聞けば是れ捕吏(とりて)が来たので、声の立つのは、老女がそれを遮って争っているのである。
 「イイエ此の二階には、イイエその様な人は、ここへは来ませんよ。」
 捕吏「来て居るか居ないかを、尋ねるのでは無い。法律上の御用を以て、此の二階を検めると言うのだ。居るか居ないかは、検めれば分かる事だ。」

 厳めしく言い切る声は、紛(まぎ)れも無い蛇兵太である。
 全くその通りである。居るか居ないかは検めれば分かるのだ。階段の一個しか無い二階だから、下から捕吏(とりて)が上って来れば、戎は袋の中に入った様な者だ。けれど彼は慌てもしない。先ず持って居る手燭を吹き消し、暖炉の棚の上に置き、尼御に向かって、
 「不幸な者の為にお祈り下さい。」
と云へば、尼御は其の意に従って、燭台の前に俯向き、祈りを始めた。

 戎自らは、袋の奥にも均しい、奥の部屋の闇に入った。入るが早いか靴音高く上って来たのは蛇兵太である。彼は燭台の前に祈れる神妙な尼御の姿を見、一方ならず意外の感を為した。定めし手に負(お)えない戎瓦戎が、必死と為って抵抗する覚悟だろうと思ったのに、唯優しい一老尼が、非常に平和な姿で、余念も無く祈って居るので、全く張り合いが弛んだ様な者だ。

 本来此の蛇兵太は、法律を敬う様に神を敬い、神と法律とには少しでも不敬を加えては成らない者と信じて居る。その外には情けも容赦も何も無い。彼は神の前に拝跪して居る尼御を見て、その祈りを妨げることさえ恐れ多い様に思い、そのまま無言で立ち去ろうかとも身構えたが、それでは法律に対する義務が済まない。

 特に彼は日頃から、此の尼御の道徳堅固な事を知り、取分けて嘘を吐(つ)かないその操守に感服して居る。此の尼御の祈る熱誠の影に、戎瓦戎の様な悪人が潜んで居ようとは、彼の信じる事が出来ない所である。けれど彼は遂に問うた。
 「尼御よ、法律の為に止むを得ずお妨げを致しますが、此の部屋に貴女はお一人ですか。全くのお一人で。」

 尼御は少しも躊躇しない。
 「ハイ一人です。」
 成ほど一人に違い無い。蛇兵太は当惑気に室中を見廻して、次の間の闇ににも目を注ぎ、
 「実は今夜脱牢した者が有りますので、私共は捜索して居るのです。若しや貴女はその者をお見受けには成りませんでしたか。その者は戎瓦戎ですが。」
 尼御は、
 「イイエ」
 殆ど神聖な言葉を吐く様に、続けて二度まで事実にあらぬ言葉を吐いた。吁(嗚呼)此の尼御は、世捨て人と為って何十年、此の二言の偽りほど、深い帰依の言葉が有るだらうか。此の言葉こそは、却って天国にも尼御の功徳として永く記録せられるだろう。余り確かな言葉だから、流石の蛇兵太も、その上を問わずに退いた。暖炉の上には、今吹き消した許かりの手燭が、猶だ煙を吐いて居るのに、彼はそれさえ怪しむ事が出来なかった。

 此の夜の真夜中に、此の土地から巴里へ行く街道を、風呂敷包みを持った職工風の男が闇を潜って急ぎ去った。此の男は即ち戎瓦戎である。職工風の衣服はきっと自分の建てた工場の中に在ったのだろう。風呂敷包みは兼ねて銀行に預けて有った、七十萬の大金であることが後で合点せられた。此の翌日、華子の死骸は教会の引き受けで、共同墓地へ質素に葬られた。

 この様にして華子の生涯は終わったが、その恩人戎瓦戎は未だ終わらない。娘小雪も未だ終わらない。是からが又新しい幕である。





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