巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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aamujyou48

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   四十八  X'節(クリスマス)の夜 二

 「未だ俺の馬に水を遣(や)って無いのだぜ。」
此の一語が小雪の耳には、殆ど死刑の宣告の様に響いた。もう何しても水汲みに行くのは逃れられない。
 女主人は何気なく答えた。
 「その様な事は有りません。宵に水を遣った筈です。」
客は言葉に力を籠めて、
 「イヤ、遣って無いよ。遣って無いよ。」

 小雪は穴を出る鼠の様に、恐々テーブルの下から這い出て、
 「先程を飲ませましたよ。私が馬桶(ばけつ)に一杯提げて行って。そうして私と馬と話しをしましたわ。」
 是は嘘である。境遇の辛さ苦しさが、八歳の少女に此の様な嘘を言わせるのだ。

 客は嘲(あざけ)り笑って、
 「何だ此の小女は、鼠の様な小さい体で、象の様な巨(でか)い嘘を吐(つ)いてさ。何アに水を呑んだか呑まないかは、馬の息で俺には分かる。」

 もう何と言い抜ける道も無い。けれど小雪はまだ言い抜け様と勉めた。聞くも痛々しいほど憐れな声で。
 「沢山に水を呑ませたのに、」
 客は面倒と言う風で、
 「何でも好いから、直ぐに水を遣って呉れ。」
 小雪は小さくなって、又テーブルの下の、ズッと奥の方へ引っ込んでしまった。

 此のとき女主人は蒸煮鍋(しちゅうなべ)から離れて、
 「お客様が、水を遣れと仰有(おっしゃ)れば、何度でも遣るが好い。」
と言いつつ四辺(あたり)を見廻して、
 「オヤ、あの餓鬼は今ここに居たかと思えば、又隠れてしまった。コレ小雪、小雪。オオあの様な奥まで引っ込んで、コレ出て来ないか。」

 小雪は仕方無く又出て来た。
 女主人「サア直ぐに厩(うまや)へ行って、馬に水を遣って来い。」
 下女に言うよりも、もっとひどい言い様である。小雪は泣かない許(ばか)りの声で、
 「水は有りませんもの。」

 女主人「無ければ崖下へ行って汲んで来るのさ。」
と、言うのは造作無いけれど、暗闇を二十町(約2km)も、小雪の足では一時間掛かる。重い桶を下げ、寒い夜風に吹かれれて、アア是が八歳の少女に出来る事だろうか。小雪が恐れ戦(おのの)くのも尤(もっと)もだ。

 「サアここに馬桶(ばけつ)が有る。」
と主人は土間の隅から、大きな亜鉛(とたん)の提げ桶を、投げ出す様に小雪の前に置いた。小雪の身体よりも桶の方が大きい。小雪は悄々(しおしお)として、桶の蔓(つる)に手を掛けた。
 「そうして帰りには、麪(ぱん)を一斤買って来るのだよ。」
と女主人は言い足し、十五銭の銀貨一個を投げ与えた。小雪は、腰の辺りに在る、衣嚢(かくし)の中へ之を入れて、まだ出兼ねる様子に見えるのを、女主人は容赦も無く店先の戸を引き開け、

 「サア早くだよ。」
と怒鳴った。小雪は宛(あたか)もその声に、吹き飛ばされる様に、提げ桶と共に転がって外に出たが、外には夜店の燈明(あかり)が、所々に燻(くすぶ)った光を放ち、闇の中に各々領分を占めて居る。
 夜店のうち、直ぐに軍曹旅館の筋向いに在るのは、子供の玩具(おもちゃ)を売る店で、最も人の目に附く所へ、看板同様に大きな人形が立ててある。

 身長(身丈)が二尺も有って、縮緬の美しい着物を着、肩に艶やかな髪の毛の懸った愛らしさは、通り掛かる女の児の足を引き留め、立ち去る事が出来ない程の力が有る。
 小雪の主人の娘、絵穂子、麻子(イポニーヌ、アゼルマ)の両人も、昼間から幾度と無く此の店先に立って、此の人形に見惚(みと)れるけれど、何しろ容易ならない値段だから、母に強求(ねだる)ほどの勇気も出ない。強求(ねだ)れば、直ぐに叱られるのが見えて居るのだ。

 小雪は苦痛の中ながらも、流石は女の児だ。此の人形を見ると共に、桶を持ったまま足を止(とど)め、殆んど何も彼も打ち忘れた様に見惚れた。此の子の目には、此の玩具店の美しさが、宮殿の様にも見え、人形の姿が、皇女とも天女とも見えるだろう。一日若(も)しも此の様な美しい着物を着たら何うだろう。何時までも、此の人形を眺めて居る事が出来たなら、何の様に嬉しいだろう。小雪は知らず知らず口を開き、細語(ささや)く様な声を洩らして、何か人形に話し掛けて居たが、此の時忽ち背後より太喝一声に、

 「未だグズグズして居るのか。」
と叱ったのは女主人である。
 桶を提げたまま小雪は逃げた。逃げて闇の中に入った。此の軍曹旅館は、殆ど町の尽(はず)れる辺りに在るので、直ぐに小雪の身は、水汲みに行く細道へ差し掛かったが、勿論ここには夜店も無く、燈明(あかり)も無い。

 全く先程の客の言った通り、馬さえも恐れて歩む事が出来ない様な暗さで有る。その中を只独りで、深く深く歩んで行く小雪の恐ろしさは、何れほどだろう。その上に夜の寒さに小さい手が腫物の様に凍え、多分は覚えをも失っただろうと察せられる。

 幾度小雪は足を留(とど)めたかも知れない。足を留めて逃げ帰ろうとしたけれど、その度に女主人の叱り声が、耳に響く様に思い、辿(たどり)り又辿って、終に崖下の泉の所に着いた。幾度も来慣れて居る道とは言え、真っ暗の中で道を踏み迷わなかったのが不思議である。

 そうして先ず、漸く水を汲み上げた。けれど小雪は知らなかった。汲む為に俯向(うつむ)いた時に、衣嚢(かくし)《ポケット》の中から、麪麭(ぱん)を買う為の、彼の十五銭銀貨が水中に落ちた。

 今は全くその銀貨を渡された事をさえ、忘れて居るのだ。ホッと息して水の満ちた桶を、足許に据え、更に立ち上がろうとしたが、もう力が尽きた。重い桶が少しも上がらない。暫く桶に靠(もた)れる様にして休んで居ると、目の前の闇の中に何か立って居る様に感ぜられる。疑心暗鬼と言う者だろう。

 誰でも暗闇に独り居れば、何だか怪しい者が、身辺を徘徊する様に思われて、益々恐ろしさが募る者だ。小雪は確かに化け物が居るのだと思った、もう猶予する力は無い。桶を提げて逃げた。
恐れは力を生ずるのだ。何うにかこうにか、桶は小雪の手に従って上がった。けれど四、五間(7~9m)行く間に水が溢(あふ)れ、そうで無くても薄着に震えて居る小雪の、腰から下を浸(ひた)したけれど、寒いとも言わない。言う暇さえも心に無いのだ。

 蹌踉(よろめ)いては歩み、行っては休み、又幾間(数m)をか歩んだが、水は次第に減るけれど、重さは益々加わる様に思われ、果ては只の一歩も、歩くことが出来ない事に成った。人間の悲酸の極とは、此の事である。曾て神の何たるかを、思った事も無い小さい口から、知らず知らず神の御名が漏れて、

 「神さま、神さま、助けて、助けて。」
 吁(ああ)、是より上の切なる祈祷が世に有ろうか。若し人を助ける神あれば、今此の小雪を助けなければ成らない。不思議にも神は有った。願いの声の終わると共に、桶は軽々と提げられた。確かに何者かが、桶の手に手を掛けて居る。その頑丈な手が、小雪の手に触れた、アア神で無く人である。

 誰か闇の中で分からないけれど、男である。小雪の背後に立ち添って、手を伸ばし水桶を軽々と提げて居るのだ。小雪は恐れ戦(おのの)く筈で有るのに、少しも恐れない。恐ろしい様な気がしない。若しや亡き母華子が、草場の影から見張って居て、恐れるに及ばない事事を、知らせるのでは無いだろうか。それとも、虫が知らせると言う者だろうか。小雪の胸には、何と無く頼もしい様な心が満ちた。





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