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噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
since 2017.4.5
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噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史
五 神の心と言う者だ
全くこの旅人は、その筋から銘を打たれて居る通り、『油断の為らぬ奴』である。真に恐るべき人間である。
燈火(ともしび)の前に立ったその顔の凄さ、その姿の恐ろしさ、老女も僧正の妹御も、我知らず逃げようとする様に立ち上がった。若し日頃から僧正の感化を受けて居なかったなら、必ず両女とも叫び声を発しただろう。
唯泰然と静かなのは僧正である。驚きも騒ぎもしない。僧正のこの静かさに、妹御は直ぐ席に戻って僧正の顔を眺め、老女は立ったまま、棒の様に成って居る。
やがて僧正は来客に向かい、穏やかにその顔を見て、問おうとした。客は問われるのを待たない。
あわてた様な声の、高い調子で、
「御覧下さい。私の名は戎・瓦戎(ジャン・バルジャン)と言います。懲役人です。十九年の間ツーロンの獄で懲役を勤め、四日前に牢から出されてポタリエと言う土地へ遣(や)られる途中です。
今日は朝から十二リーグ(約17里(68km))歩き、疲れ果ててこの土地へ着いたけれど、飯食う所も寝る所も有りません。行く先々で皆断られ、仕方無しにこの家の外の石の上に寝て居たら、教会から出た婦人が、この家の戸を叩いて見よと教えて呉れました。それだから叩きました。
泊めて呉れますか泊めませんか。此家は宿屋ですか。銭はこう見えても持って居るのですよ。十九年の間、牢の中で溜まった工銭が百九法(フラン)と十五銭。四日の旅で二十銭使った丈です。宿賃は払いますが、泊めて呉れるのですか。呉れないのですか。」
この返辞を何より先に聞き度いのだ。又失望するのが厭(いや)だから、彼は第一着に自分の履歴をさらけ出した。僧正は人を断った事が無い。返辞しなくても分かって居る。直ぐに老女に向かい、例の通り静かに、
『サア、皿を出してお呉れ。』
と云った。
この者の為に早や膳立てを命ずるのだ。彼に取っては実に意外だ。何にも問い返さずに早や膳立てとは、何かの間違いでは有るまいか。彼は突々(つかつか)と又一層燈火(あかり)の傍に進んで急に踏み止まり、
「お待ち成さい。お待ち成さい。今私しの言った事が分かりましたか。私は懲役人ですよ。罪人ですよ。牢から出された許りですよ。この通り是れ黄色い鑑札を持って居ます。読んで御覧なさい。極めて危険な奴だと書き付けてあるのです。」
と言って、その鑑札札を僧正の前に差し付けたが、
「イヤ、貴方が読まないならば、私が正直に読んで聞かせて上げましょう。之でも牢の中の学校で十九年の間に読み書きは覚えたのです。ハハハ四十六と言う年に成って、自分の兇状を読む事が出来るのだ。」
と物凄(すご)く自ら嘲(あざけ)って、
「ソレね、放免囚、戎・瓦戎(ジャン・バルジャン)と記して有ります。盗を犯して五年、在監中に破牢を企てた事四回、その罪の為に刑期を延ばされること十四年、合わせて十九年入獄した。この者は最も危険である。眼を離す可(べ)からずと書いて有る。全くこの通りです。泊めて呉れますか。もう腹が空いて、疲れて、何か食わなければ居られません。寝るのは馬屋の隅でも好いから、何うかねえ、一夜だけ。」
僧正は又老女に向かい、
「新しい白布を掛けて寝床の用意をもしてお呉れ。」
僧正の言い付けには、一言も無く老女は従うのだ。はいはいと言って次の部屋に去った。
僧正は初めて戎・瓦戎に向かい、
「サア貴君(きくん)。此処へ据わってお煖(あた)り成さい。丁度私共も是から食事を始める所ですから、御一緒に致しましょう。」
何と言う丁寧な言葉だろう。しかも故(わざ)とで無く、自然である。戎・瓦戎(ジャンバルジャン)は初めて、泊めて呉れる事と合点が行った。
けれど貴君(きくん)、アア貴君などと言われるのは、今まで覚えの無い事だ。泊まりを得たのは無論嬉しくも安心にも感ずるだろうが、それよりは、この待遇が怪しい。合点が行か無い。殆ど恐ろしい。全く僧正の盛徳《立派な徳》に打たれたのだ。彼はしばらくの間、口も利けなかった。何やら言おうとしたけれど、吃(ども)って語を為さない。殆ど狂人の言葉かとも思われる。
稍(やや)あって彼は切れ切れに、
『エ、泊めて呉れる。エ、本当、エ、何と仰(おっしゃ)った。私をエ、追い払いもせず、前科者を、貴君などと貴方は、誰でもこの野良猫めなどと言いますのに、有難い、有難い、何だか本当に泊めて呉れる様に見えるぞ。白い布で寝床の用意などと。オオ十九年の間、寝床と言う者は知らなかった。有難い。貴方は善人だ。ここは宿屋ですか。宿屋の、貴方は御亭主ですか。立派な御亭主だなア。オオ善人、善人、全く宿屋の御亭主ですか。」
僧正「私はここに住む僧侶です。」
戎「オオ、お坊様、それでは宿賃などは取らないんだ。成程、着物を見れば分かって居る。ここの教会の牧師さんでしょう。」
僧正「そうです。」
戎(じゃん)は半信半疑、夢心地で有ったけれど、初めて合点が行った様に背の袋を卸(おろ)し、
「アア、善人だなア、牢屋へも時々牧師と言うのが来たけれど、何だか分から無い事ばかり言って居たが、エお坊さん、牧師さん、牧師がズッと出世して登り詰めると、僧正と言うのに成りますよ。」
聞いて居た妹御は思はず笑みを催した。恐ろしさが稍(やや)薄らいだ。戎は語を継ぎ、
「僧正と言うのは十九年の間にたった一度しか牢屋へは来ませなんだ。立派ですゼ。帽子なども金ぴかで、サ、何だって陸軍大将の次に附くのだと言いますもの。貴方の様な訳の分かった方は僧正に成ったって可(い)いや。牧師では勿体ない。」
と言いながら、じっくりと僧正の質素な姿を見直して、
「アア貴方は貧しい。未だ牧師にも成って居ないワ。宿賃を払いましょうか。」
僧正「それには及びません。」
答える声には憐みが満ちて居る。
その中に老女は銀の皿を出して来た。戎・瓦戎は席に着いた。僧正は老女に向かい、
「何だか燈火(あかり)が暗い様だ。」
とは銀の燭台をも持って来いとの心だろう。老女がそう心得て去ろうとすると、
「皿も之では足りないだろう。」
と言い足した。六枚も残らず出せとの謎である。
この様に盛徳限り無い高僧でも、子供の様な心が有る。尤(もっと)も子供の様な心だから、自然にその徳が高くなるので有ろうけれど、皿と燭台を客に見せるのを、日頃から一方ならず歓(よろこ)ばしく感ずる様子である。この外には道楽に類した事が一つも無い。戎・瓦戎は既に「貴君」と呼ばれて異様に心が鎔(とろ)けて居る上に、この様な扱いを受け、嬉しさと怪しさが何時終わるか果てが分からない。
「牧師さん、ーーー、先ア追々牧師に出世成さるのだから、今から牧師さんと云って置こう。ねえ牧師さん、貴方は世間の人の様に、私を追い払いもせず、此の通り銀の皿や銀の燭台を出してお客扱いにして下さって、私も、もう何にも貴方には隠しませんよ。」
と言って身の上をでも語りそうである。僧正は遮(さへぎ)る様に、
「ナニ、何も私へ話すには及びません。この家は私の家(うち)では無く、私がこの家の主人では無いのですから。」
戎「エ、エ」
僧正「この家は誰でも艱難する(困った)人の家です。行き暮れて悩む人がこの家の主人です。」
この言葉がもし心の底に浸み込まなければ人で無い。イヤ鬼ですらも無い。
戎は
「本当にねえ」
と殆ど呆れた様子である。
僧正「貴方の名前も聞かないうちから分かって居ます。」
戎「エ、聞かないうちから。」
僧正「ハイ、吾々の同胞兄妹と言うのです。」
アアこの者を同胞兄弟。真に僧正の心は、人の心で無く、神の心と言う者だ。
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