aamujyou50
噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
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噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史 訳
五十 X'節(クリスマス)の夜 四
小雪は、水桶を提げて呉れたその人の顔を見ようとした。けれど闇の中で、良くは見えな。その人も、小雪の顔を覗き込む様にして、
「イヤ此桶は中々重い。此の伯父さんが、持って行ってやろう。」
と答えた。顔は見えないが、自ら伯父さんと言うからは、可成りの老人に違い無い。声も若い人の様には聞こえない。
小雪は今まで、何人をも、
「伯父さん」
などと親しそうに呼んだ事は無い。けれど此の時ばかりは、有難さに思わずそう呼んだ。
「伯父さん、伯父さん。」
老人「オオ、お前は幾歳(いくつ)だえ。」
小雪「八歳(やっつ)です。」
老人「八歳で此の様な桶を持って」
小雪「ハイ水汲みに来たのです。」
話は畳掛ける様に、後から後から続いて出る。
老人「オオ水汲みに、此の山の中へ、シテ何処から。」
小雪「二十丁(約2km)ほど先からです。」
老人は少し考えて、
「二十丁も闇の中を、余ほど無慈悲な母親だと見える。」
小雪「私には阿母(おっか)さんは無いのです。」
老人「ナニ阿母さんが無い。」
小雪「ハイ、皆んな阿母さんが有るのに、私には無いのですよ。」
と言い、老人が語を継がないうちに、
「多分初めから無いのでしょう。見た事が有りませんもの。そうです聞いた事も有りません。」
老人は益々深く心を動かした様子で、やがて水桶を下に置き、
「良く似た身の上も有る者だ。」
と呟(つぶや)いて、左の手を小雪の頭に、右の手を小雪の顎に掛け、小雪の顔を引き起こして、透かして見つつ、
「シテお前の名は何と言う。」
此の様にせられても小雪は更に恐れを感じない。
「ハイ、私しの名は小雪」
「エ、エ、エ、小雪」
と老人は叫んだ。真に跳ね返るほど驚いたらしい。彼は暫(しばら)くしてから、又水桶を取り上げて歩みつつ、
「オオ小雪、小雪、小雪と言うのだな。家は何処だ。」
と何げ無く聞いた。
小雪「家はモントフアメール」
老人「誰が此の様な水を汲ませる。」
小雪「手鳴田のお内儀(かみさん)さんが。」
老人「オオ手鳴田のお内儀さんが、してその家は。」
小雪「宿屋」
老人「丁度好い。宿屋なら私も泊めて貰おう。」
小雪は道を案内する様に先に立って歩んだ。
歩みつつも時々に背後(うしろ)を向き、闇の中にも
「伯父さん」の顔を見上げるのは、宛も主人の前に歩む飼い犬の様である。深い安心と親しみが自ずから現れるのだ。
老人「お前の外に下女は無いの。」
小雪「有りません。絵穂子(イポニーヌ)と麻子(アゼルマ)と言う二人の娘が有るばかり。」
老人「その娘は何をして居る」
小雪「人形や玩具を沢山持って遊んでいるの、私には一個も人形が無いの。小さい鉛の小刀が有る許(ばか)りなのよ。短い之れほどの」
と言って、自分の指を出して示した。
老人「小刀を玩具にするとは危ないが」
小雪「鉛だもの切れないワ、蠅の首か何かは切るけれど。」
幼(いとけ)ない物語が、深く深く老人の心に浸み込む様子だ。
こうして二人はモントフアメールの町に入った。小雪は先刻、女主人から麪麭(パン)を買って来いと命ぜられた、その麪麭(パン)屋の前をも過ぎたけれど、胴忘(どわす)れに忘れて、麪麭(パン)の事は思いも出さない。そのうちに軍曹旅館手鳴田の家の近くへ来た。小雪は踏み留まって、
「もうその桶を私が持って行きましょう。」
老人「何で」
小雪「自分で持たなければ、お内儀さんに叱られます。」
老人は桶を小雪の手に持たせた。直ぐに旅館の前に達した。小雪は戸を叩かうとしたけれど、それよりも前に、先ず夜店の大きな人形に、欲し相に目を注いだ。欲しがったからと言って、届かない望みでは有るけれど、子供心に、目を注ぐがずには居られないのだ。
戸を叩くが否や、内から待って居た様に引き開けたのは内儀である。
「此の子は先ア、何と言う遅い事だ。又途中で道草を食って居たのだろう。もうお客様が水は水はと、三度も催促なさったのに。」
小雪は之に返事はせず、
「お内儀さん、お客様です。」
と彼の老人を指し示した。
お客様と言えば小言の鉾先が反れるのだ。幼いながらも、苦しめられてのみ居る丈に、是れだけの防御法は知って居る。果たして内儀は飛び附く様に、
「エエお客様、お客様、サア此方(こちら)へ」
と言い、戸の外へ顔を出してその姿を眺めた。
貧民かとも思われる程の身形(みなり)で、飛びつく程のお客様では無い。
直ぐに言葉の調子を冷淡にして、
「オヤ貴方はお泊りなの」
夜更けての客だから、問わなくてもお泊りに決まって居る。老人は
「ハイ泊めて貰いましょう。」
と言って内に入った。
内儀は更にその姿を見直したが、愈々(いよいよ)好ましい客で無いから、帳場の方を見返って亭主の顔色に相談すると、之も苦々しそうに顰(しか)んで、断れとの意が浮かんで居る。内儀は直ぐに、
「アア」、お泊りならば生憎ですよ。寝間が皆な塞(ふさ)がって居りますから。「
殆ど、昔戎瓦戎がダインの宿屋で、断られた時の様な状態である。
老人「ナニ寝間に及びません、馬屋でも屋根裏でも宜しい。泊まり賃は、寝間を借りたのと同様に払うから。」
亭主「では四十銭申し受けます。」
老人は
「宜しい」
と事も無げに答えたが、亭主の傍に居た先客は驚いた。
「何だと、寝間代が四十銭。先日まで二十銭で有ったのを、何時引き上げた。四十銭では、俺は街尽(はず)れの宿へ宿替えしなければ。」
亭主は制して、
「ナニ値上げをしたのでは無いのです。下等の客だけ高く取るのです。そうしないと、次第に低い客種が増して、好いお客が嫌がる様になりますから。」
随分乱暴な言い分である。けれど低い客種と言われた彼の老人は、聞かぬ振りで、食卓の所へ腰を掛けた。
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