巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou56

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   五十六 客と亭主(あるじ)三
 
 小雪の手を引いて老人は、もう何所まで行っただろう。何所まででも構わない。何でも追付(おっつ)かなければと、手鳴田は只管(ひたす)ら急いだ。
 彼は二人の行った方角を知らない。初めは反対の方へ指して追掛(おっか)けたが、途中で人から聞き、又引き返して他の方へ追った。之が為余ほど時刻が遅れたけれど、彼は失望しない。

 高の知れた老人の足で、而も小娘の手を引いて居るのだもの、追附かれない事が有る者か。
 到頭彼は追附いた。町を離れて二里(8km)ほども行き、山路に掛かって、是から林に分け入ろうと言う所で、木の根に腰を下ろして、老人が小雪と共に休んで居た。

 彼は正直らしい面持ちを以て老人の前に行ったが、直ぐに自分の衣嚢(かくし)から、先刻老人より受け取った、彼の五百円札三枚を取り出して、
 「サア是は先刻のお金ですがお返し申しましょう。」
と言って差し出した。

 何の意味だか老人は知る筈が無い。
 「エ、エ、何と言われる。」
と言って、怪しんで、手鳴田の顔を見上げた。
 手鳴田「此の子を貴方に遣(や)る事は出来ないのです。ですからお金を返して此の子を連れて帰るのです。」

 直接に金を増して呉れと言わない所が上手なんだ。彼の心では、もう此の老人を、底知れぬ金満家だと思って居る。思うも道理だ。昨夜我家へ泊ってから、二十銭銀貨一個を初めとし、次は人形の為三十円、次の宿泊料に二十三円、最後には千五百円と、通例の人ならば目を剥く様な金額を、平気で差し出した。その出す様が、二十銭の時も千五百円の時も全く同じ事で、少しも金高の多い少ないと言う区別を、知らない程に見える。

 此の様子ならば、仮令(たと)え一万五千円と言っても、同じく平気で出すに違い無いと充分に見込んで居る。それに又、此の老人が、小雪の為に着物まで調(あつら)えて持って来て居た所を見れば、小雪を受け取るのだけの為に、我が家へ遣って来た事も明白で、決して一時の憐れみとか、一時の親切とか言う出来心で無いに決まって居る。それなのに談判の纏(まと)まるまで、そうと言わず、扨(さ)て談判が纏まっても、自分の名を明かさなかった所などを考え合せると、何か秘密の有る事に違い無い。

 秘密、秘密、金満家の秘密は金の蔓だ。手鳴田自身の今までの実験に由ると、胸に秘密を蓄えて居る金満家は、水を含んだ海綿の様な者で、此れほど搾(絞)るに容易な者は無い。彼は此の老人を海綿だと心得て居る。

 老人は怪しさに我慢できない句調で、
 「エ、小雪をーーー連れてーーー帰るとな。」
 手鳴田「ハイ、篤(とく)と考えて見たのですが、此の子は人様に遣る訳には行きません。母親から預かった者ですから、遣りなどしてはその母親へ申し訳が立たないのです。母親自身に引き取りに来るか、そうで無ければ、母の委任状を持って来た人の外へは、決して渡す事が出来ない子です。」

 老人は唯だ「成ほど」と答えたままで、多言を費やさない。後は無言で彼の革の財布を取り出した。
 先刻千五百円を出す為に取り出した時と、同じ様な取り出し方である。手鳴田は〆たと思い、嬉しさが総身に浸み渡る様に感じた。愈々(いよいよ)海綿が水を吐くのだ。銀行券と言う勿体ない水を。
 「サア、是を遣れば言い分は無いだろう。」
と言って、老人は財布の中から紙幣、確かに紙幣、と見える一枚を取り出して、手鳴田に示した。

 紙幣ならば一万円だろうか。余ほど幅が広い様に見える。手鳴田は手先を震わせる様にして受け取って見ると、是れは何うだろう、小雪の母華子の作った委任状である。此の書面持参の人へ、小雪を引き渡して呉れとの事を記して、明らかに手鳴田に当て、猶(なお)費用の滞りは、此の人が払うからと書いて有る。抑(そもそ)も華子が、何の様な場合に此の委任状を作って誰に渡したかは、読者が未だ記憶している筈である。

 老人は言った。
 「是れで言う事は無いでしょう。」
 手鳴田は唯だ呻(うめ)いた。
 「ウーン」
と許かりで返事は出ない。
 老人「遠慮には及ばない。サア此の書付をお納め成さい。是さえ貴方が持って居れば、小雪を渡したと言う立派な証拠。立派な受け取り、二度と此の児の母から催促される気遣いは有りません。」

 手鳴田は委任状を巻いて納めた。そうして又言った。
 「贋手紙かも知れないけれど、今は仕方が有りません。けれど此の表にも有る通り、費用の滞りは払うと有りますから、それを払って戴きましょう。随分豪(えら)く溜まっていますよ。」
 転んでも只は起きない。老人は商人が算盤球を弾く時の様な語調で、

 「成ほど、費用と言うのは、一か月が十五円の決めで、今年の一月此の児の母が貴方から受け取った書付に、百二十円、何や彼や合わせて百二十円と為って居ました。翌二月に送った勘定書では、それが嵩(かさ)んで五百円と為りました。此の五百円へ対し、母親から三百円入れて三月の初めに又三百円送りました。是で百円だけ来越しに成ったのです。
 その後九カ月の分が百三十五円だから、三十五円だけ貴方へ払わねば成らない。その三十五円に対して、今朝私から千五百円貴方へ渡しました。」

 自分の知って居るよりも明白にこう知って居られては、何と言い作る事も出来ない。
全く手鳴田は罠に罹(かか)った狼の様な者である。



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