巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou57

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   五十七  抑も此の老人は何者

  手鳴田は一言も出す言葉が無い。全く罠に罹(かか)った狼の様な者だ。そうして彼は狼の悶(もが)く様に自分の身を振り立てた。
 けれど彼は終に言った。もう遠慮も何も無い。言はば死物狂いの様な者だ。
 「三千円お出しなさい。サアさも無くば名前も知らない貴方に、小雪を渡す事は出来ません。小雪を連れて返ります。」

 小雪は老人の背後に小さくなって居る。老人は静かに立った。宛(あたか)も手鳴田の今の言葉が耳に入らない風である。
 「サア、小雪、行こうよ。」
と言って左の手に小雪を引き、右の手に杖(ステッキ)を執った。手鳴田はその杖を尻目に見た。容易ならない大きさである。そうして此の場所の淋しさをも考えた。強いて老人を引き留める勇気は出ない。
  
 彼は立ったまま、歩み去る老人の後姿を見た。その肩幅の広さ、腕の節の太さ、老人では有るけれど、何れほど力が有るか分からない。暫くにして、彼の眼は自分の腕の上に落ちた。そう人に劣る身体では無いけれど、老人の腕に比べると、鉄の棒と木の枝程の違いが有る様に見える。彼は呟いた。
 「エエ、俺は何たる馬鹿だろう。此様な時に鉄砲を持たずに来たとは。」

 成るほど鉄砲をさえ持って来たなら、阿落阿落(おろおろ)引けは取らないだろうに、
 「けれど何に、此のまま見逃して成る者か、、見え隠れに何所までも尾(つ)いて行き、その住居まで見届けてやろう。」
 彼は決心して跡を追った。

 老人は小雪の手を引いたままで、深く何事をか考える様に、首を垂れて非常に静かに歩んだが、背後に人の気の有るのを察したのか、時々に立ち留まって振り返り、終に手鳴田の尾いて来るのを認めた。けれど無言で、小雪を引き寄せる様にして、木の最も茂った小径(道)へ入った。手鳴田は余り離れて居ては見失う恐れが有るから、止むを得ず歩(あし)を早め、余ほど間近くまで行くと、老人は又振り向き、手鳴田が隠れる暇の無い中にその顔をジッと眺めた。

 何と思ったか知らないけれど、老人の眼には聊(いささ)か不安心の光が見えた。けれど思い直した風で肩を峙(そばだ)て又も知らぬ顔で歩んだ。執念(しゅうね)くも手鳴田は又尾いて行った。
 林の最も深くして、昼さえも物凄い様な所ま行くと、老人は三度目に振り返った。今度は不安心な色も無く。断固とした決心を起こした風で、手鳴田の方へ向いて立ち止った。此の人通りの絶えた所にで、手鳴田を引き捕らえて、目に物見せる思案程が十分にその様子に現れて居る。

 手鳴田は震え上がって、再び呟いた、
 「エエ、鉄砲さえ持って来たなら、鉄砲さえ持って来たなら。」
 悔やんでも今は及ばない。もう断念する外は無い。躊躇して捕らえられては大変だから、直ぐに引き返して、何れほど彼は残念で有っただろう。
 併し之が為に、老人は再び面倒を受けなかった。そうして小雪の歩み得る丈、徐々(そろそろ)と歩み、又時々は休みなどして、日の暮頃に無事に巴里へ着いた。抑(そもそ)も此の老人は何者だろう。
 問う迄も無く戎・瓦戎(ぢゃん・ばるぢゃん)である。元のモントリウルの市長斑井父老と言われたその人だ。

 彼はツーロン港で軍艦オリオン号の帆柱の頂辺(てっぺん)から海に落ち、十分に捜索せられたけれど、死骸が分からず、終に海底の深い藻に搦(から)まって、死んだ者だろうと見做(みな)されたが、そう見做されるのが、彼の海へ落ちる時の決心で有った。彼は水中で息の続くだけ潜り泳いで、数限り無い船と船のとの底を抜け、時々は顔だけ出して空気を吸い、終に浮標の代わりに使われて居る、朽ちた空船の中へ入って、夜の更けるまで隠れて居た。それから忍び出て姿を変えた。

 素よりツーロンの付近には、脱牢者に古着などを売り渡す事を渡世にして居る、怪しい商人が昔から有るのだ。警察では知らないけれど、永く牢に居る囚人は皆知って居る。其の様な商人を尋ねて身支度をし、更に忍んで巴里に入り、最も人の目に附かないホピタル街の或一部へ隠れ家を借り入れて置いて、それで小雪を迎えに行ったのだ。

 小雪を引き取って育て上げ、一人前の女として世に立つ様にしてやりたいのが、彼の今と為っての唯一つの望みである。此の望みが彼に取っては、自分の心よりも強い。思い切るにも思い切られない。若し此の望みさえ無ければ、彼は甘んじて牢の中で老い且死んだであろう。
 こう成っては、望みも実に神聖である。欲気も無く、邪念も無い。唯だ小雪を育て上げ度い。小雪の為には、我が命も我が身の危険も何も無いのだ。

 きっと彼は、無事に小雪の手を引いて巴里に入って、多年の本望が達した様に、心に無限の歓びを感じただろう。けれど牢から逃れ出た彼の様な身を以て、此の後無事に小雪を育て上げる事が出来るだろうか。若しも彼が死なずして、姿を変えて此の世に潜んで居ると分かれば、直ぐに捕り手が彼の身を追って来るのだ。彼一人ならば又何うとも逃れる手段が無いでは無かろう。

 僅か八歳の少女を連れて、若し其の様な場合になれば、何う逃れることが出来る。小雪と言う生きた荷物が、彼の身の首扼(かせ)《枷》では無いだろうか。そのような事は、彼、今は考える暇も無い。
 巴里へ着くと小雪はもう、歩く事が出来ない程に疲れた。先ず乗り合い馬車へは乗せたけれど、馬車は借りて有る家の門口までは着かない。又着けられもしない。彼は馬車から眠った小雪を負うて降りた。彼の背には、眠った小雪と目を開けた人形と両個(二人)が負(お)ぶさって居る。此の異様な姿で、彼は借りて有る隠れ家へ、夜に入って後に着いた。

 是から先の彼と小雪の運命は唯神が知るばかりだ。



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