巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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aamujyou67

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   六十七  尼院(あまでら) 二

 誠に、身の置き所の無い戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)に取って、尼院(あまでら)ほど隠れるのに好い場所は無い。尼院には幼女を教育する寄宿寮もある。丁度小雪の教育を託するに適当だ。此の寄宿寮に入る幼女は、総て後々尼と為る候補者だから、何でも入寮を願い出る幼女が有れば、院長は喜ぶのだ。と言って戎瓦戎と言う男一匹が、一緒に居ることは矢張り院長が喜ぶだろうか。イヤ飛んでも無い。それは禁制だ。

 此の夜、戎瓦戎は先ず小雪を寝かせて後、更けるまで星部父老と相談した。父老の小屋に宿って居るのは好いけれど、尼院の人に顔を見られない事は、到底出来ない。小屋の前の空き地へは、時々幼女の群れが運動に出て来るので、若し鞠(まり)でも飛び込めば、大勢が此の小屋へ入って来て、家捜しをする。その時に隠れる場所が無い。直ぐに見現されて、星部父老も諸共に追い出されるのは必定だ。父老は考え考え言った。

 「けれど貴方は、好い時にいらっしゃった。此の寺の前院長が、数年前から老病で、昨今は危篤と為り、今夜から尼さん達が四十時間の御祈祷を始めました。それだから明日、明後日は誰も庭などへ出て来ません。何でもその間に工夫を決めてしまわなければ。」
 戎は之を聞いて、初めて合点が行った。先刻此の庭へ天下った時に、賛美の歌を聞いたのは、その祈祷の始まる所で有ったのだ。

 それから薄暗い室の窓を覗いた時、石の床に伏した女の死骸が有ったのは、死骸では無い、生きた尼さんが悔謝の苦行をして居られたのだ。こうは合点の行った所で、さて身の振り方には、その合点が何の役にも立たない。戎は途方に暮れた声で、
 「では此のまま隠れているわけには行かない。お前と同様に庭男にでも雇って貰わなければ。」

 雇って貰うと言っても、男禁制の此の場所へ、簡単に雇って貰う事が出来るだろうか。
 父老「先ア、私の弟とでも言い立てて、お雇いを願って見ましょう。私も取る年なので、もう骨が折れて勤まり兼ねるから、手助けが欲しいとでも言い立てれば、万に一つ聞き届けられるかも知れませんが、それにしても一旦は貴方がここを出て、そうして外から雇われて来なければ成りません。」

 成ほどそうだ。雇われると言うには、何うしても外から来なければならない。戎は殆ど顔色を土の様にした。一旦ここを出ると言う事が、何して出来よう。元(もと)来た塀を乗り越えようか。外に蛇兵太が厳重な見張り番を残して有るのは必定だ。塀を越えれば直ぐに、その者の広げて居る手の中に落ちるのだ。門から出れば此の院(てら)の番人が、裏門にも表門にも立って居て、一人一人検めた上で無ければ、出さない。

 或いは此の尼院に入ったのが、却(かえ)って袋の中に落ちた様な者かも知れない。
 当時の尼院の様子を聞き知って居る人は、戎瓦戎の一方ならない当惑を察するだろう。尼院は全く治外法権の有様で、世間とは習慣も儀式も違い、取分けて人の出入りが厳重で、何の様な事が有っても、忍んで出るの忍んで入るのと言うことは出来ない仕組みに成って居た。それだから警察でも尼寺へのみは、何の詮索をも及ぼさなかったのだ。又それだから戎瓦戎も、はたと途方に暮れたのだ。

 何の思案も浮かばずに此の夜は果てた。思案の浮かぶ筈が無いのだ。戎は只管(ひたすら)に神のご加護を祈って明かした。そうして翌朝になると、本堂で毎(つね)と異(かわ)った鐘が鳴った。 星部父老は之を聞いて、
 「アア到頭、前の院長さんが無くなられました。今の鐘がその知らせです。」
と言った。

 午後に及んで父老は今の院長から呼び出された。是は怪しむに足りない。死人の有った時に、その筋から送られる棺を動かしたり、その蓋に釘を打ったり、埋葬の手伝いを為(し)たりするのが此の父老の役目である。無論それ等の用事だろうと父老は心得て、院長の前に出ると、毎(いつ)もとは少し違った。院長は人の居ない部屋へ父老を連れて行き、声を潜め言うには、

 「前院長の遺言で、その死骸をば、その筋の棺へは入れず、数年来、御自身の病臥して居た寝棺へそのまま蓋をして、葬る訳に成った。」
との事である。尼さんと言う者は、病気になると寝棺の様な箱を作り、その中へ寝て居るのが式である。死ねばその箱から、本当の棺へ移すのだが、様々な信仰や迷信を持って居るので、常人には合点の行かない様な遺言をする事が多い。

 そうしてその遺言は、神聖な者と見て誰も背かない。況(ま)して前院長とも言う高貴な尼君だから、今の院長が精密にその旨を奉ずるのは最もだ。
 星部父老は心の中で、何うか弟の雇入れを願う様な、好い機会は無いだろうかと、そればかりを思って聞いて居ると、院長の尼君は言葉を継ぎ、

 「そうして葬るのは墓地では無い。此の本堂の祭壇の下へとの御所望ゆえ、床を剥がして、その通りにしなければ成らない。」
と言い、それで、これらの事は人の耳に入れられないので、汝一人で計らえとの事である。父老はここぞと思い、自身の不具な事を言い立て、年老いて力も足りないので、床を剥がしたり、その下の石を動かしたりする為に、誰か相手を所望し、幸い自分に弟が有るからと言い、それにその弟には、幼い娘が有って、日頃から寄宿寮に入れ度いと望んでいるので、之をも共に呼び迎えれば丁度好い。」
と、日頃はそう廻らない口で、殆ど一生懸命に説いた。

 尼君は一切父老の嘆願に耳を傾けない様子で、
 「汝の力に余る所は、尼の中で手助けをする者が有る。」
と言って言葉を結んだ。
 「それにしても、その筋から来る棺は何う成されます。当たり前に葬式を出さなければ、直ぐにその筋へ分かりましょう。此の節は衛生などと言う事も喧(や)かましく、幾等尼君の死骸でも、床下へ埋めたと有っては。」
と父老は全く正直に異議を申し立てた。

 尼君は心配そうに、
 「サアその事が思案に余って居る。何うか汝(そなた)の智慧で、中へ重い者でも入れ、儀式の通りに送り出してお呉れ。」
 父老「心得ました。土をでも包んで入れましょう。」

 尼君「オオ人は土から作られたもの。そうして土に帰るのが常なれば、土を包むとは好い思案。何うか好きに計らってよ。」
と言って、初めて愁眉を開き、座を立ちながら父老を顧み、
 「汝の忠義に免じ、弟とやらを、汝の下役に雇うて遣(つか)わそう程に、葬式の済んだ後に、娘をも共々に連れて来るが好い。」
との一言を残された。

 胸の重荷を一方は下ろした様に父老は感じた。

 併(しか)し「弟」を連れて来るには、先ず一旦連れて出なければ成らない。娘の方は小さいから、自分が買い物に行く振りで、籠(つづら)を背負い、その中に入れて連れて出し、そうして知る人の家に預けて置き、然るべき時に迎えて来ることも出来るけれど、「弟」の方はそうは行かない。籠へ入り切らない上、跛足(びっこ)の自分が、背負う事も出来ない。唯此の事にこだわり、心配しながらも小屋に帰って、戎瓦戎に尼君の言葉を話した。戎瓦戎は静かに聞いて、忽ち手を拍(う)ち、

 「アア漸(やっ)と外へ出る工夫が出来た。土の代わりに私をその棺に入れて貰おう。」
 余り豪胆な所望だから、父老はしばらくは、本気で言って居る事とは思えなかった。



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