巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   八十五 四国兼帯の人 二

 この手紙に宛てて有る慈善紳士が真逆(まさか)に白翁では無いだろう。白翁である筈は無いのだ。けれど守安は此の手紙で白翁の事を思い出した。イヤ白翁の事よりも黒姫の事を思い出した。そうして二度までも此の一通だけ読み直した。
 その文句に由ると、此の慈善紳士と言うのは、寺へ日々参詣に来る人で、その度に寺の辺に居る乞食などへ、幾分の恵みを与えて行く事が分かる。そうして此の手紙の差出人が、その人への願いの旨意は、

 「何うか私し共の居る下宿屋へ御立ち寄りの上、私共夫婦及び娘二人が如何ほど難儀して居るやを御覧下され度し。」
と言うもので、その上に様々の泣き言を書き列(連)ね、
  「永の間、妻が病気」だの、「眷属(けんぞく)《親族》四人が今日で全二日、食物を得ぬ」だの、誰が見ても不憫を催さずには居られない様に作って有る。爾(そう)して最後に、

 「私共は偽りを以て人の慈善を乞う者には之れ無く、一応御立ち寄りの上、実情をご覧下されば此の言葉の真実なるは一目にて御分かりの事と存じ候。此の手紙持参の者は私の長女にて、既に年頃とも相成り候えども、御覧の通り乞食よりも見苦しい襤褸(ぼろ)を纏(まと)える儀に御座候、何とぞ此の者と御同道の程願い奉り候」
と記し、署名は、
「昔は俳優とも言われ、今は不幸の底に沈める濱田」
と有る。

 或人に向かっては勤王党の落ち武者、或る人へは俳優などと、何れが本当か分からないけれど、一身を四人に使い別ける所を見ると、天性の俳優かも知れない。併(しか)し此の様な境遇に居る人は、随分今の世に少なくは無いであろう。守安は読み終わって、多少の哀れを催したけれど、別に如何とも仕方が無い。差出人は四通に四色の名が有るのみで宿所が無い。夜が明ければ拾い者として警察へでも届けようかと、此の様に思案して元の通り封に納め、煙草臭い手巾(ハンケチ)に包んで寝てしまった。

 翌朝の七時頃、起き出でて未だ間も無いのに、外の廊下から入口の戸を叩く者が有る。きっと家番の老女だろうと思い、「お入り」と内から応(こた)えた。直ぐに戸を開いて、閾(しきい)に立った一人が有る。見れば老女でも無い。年頃十六、七とも見える娘で、イヤ娘と言えば娘だが、其の身姿(みなり)の穢い事は全くの乞食としか思われない。

 昨夜の手紙に有った俳優濱田の娘でさえも、是よりは見苦しく無いだろう。顔も下品で、人を人とも思わない様な風が見えて居る。少し意外の思いをして守安は其の顔を眺めた。
 けれど娘は突々(つかつか)と入って来て、
 「私の亜父(おとっ)さんが之をを貴方へ。」
と言って差し出したのは一通の手紙である。

 「何うか直ぐにお読み下さい。」
と言足した。守安は受け取ったけれど、直ぐには読まない。先ず娘の顔を見たが、何だか初めて見る顔では無い様だ。
 守安「貴女は何所かで見受けたかとも思いますが。」
 娘は身姿相応の下品な言葉で、

 「アレ、那(あ)んな事を仰有る。度々廊下や入口でお目に掛かるでは有りませんか。貴方は知らずとも私の方では良く知って居ますよ。先達っても貴方は、オストリツの橋を渡って、真部と言う老人の家(うち)へ行ったでしょう。私は見て居ましたよ。毎(いつ)でも貴方は私などを見ない振りをして、サッサと行ってしまうでは有りませんか。私の様な髪の毛の赤い女はお嫌いですねエ、お嫌いでしょう。貴方は。」

 乞食の児でも年頃になれば男を恋いもする。日陰の草でも春が来れば花を着けずには居ない。娘は守安の猶(なお)も合点の行かない顔を見て、
 「私は此の部屋と薄い紙の壁を一つ隔てた部屋に居るのですよ。隣の部屋の長女ですよ。」
と叫んだ。」
 扨(さ)ては四国兼帯の人の娘か。

 ヤッと合点して、渡された手紙の封を切った。其の文句は、
 「隣室なる恵み深き青年の君よ。六ケ月前、君が名を匿(隠)して家賃の滞りをお払い下されし恩は、生涯忘れ申さず候。然るに我等は再び君に請わざるを得ず。多くとは申さず。我等家族四人、全四日の間、一片の麪(パン)さえも得ず。哀れ四人を助けると思い、幾等でも麪の代を御貸し下され度く候」
と有る。

 読み終わると共に守安は悟った。確かに昨夜拾った四通の手紙が、此の手紙と同じ人の手から出たのだ。筆蹟も同じである。用紙も封筒も、そうして手紙に附いて居る煙草の臭気までも、彼(あ)れと此れとの相違が無い。扨ては隣室の四国兼帯と聞く人が、手紙を以て貴顕貴婦人の愛を乞う狡猾な乞食なんだ。此の娘が其の使いなんだ。昨夜霧の籠めた街燈の下(もと)で捕吏に捕まる所を、ヤッと逃げたなどと語り合って居た二人が此の女と其の妹とで有ったので、それにしても隣室の主人が、我には何と署名して有るか知らと、最後の署名を見れば、
 「病める妻の夫、餓えたる二人の娘の父、長鳥」と記して有る。

 是で見ると昨夜の四様の名の外に、猶(ま)だ名が有る。さすれば五国兼帯だ。若しも此の長鳥と言う姓が偽名ならば六国兼帯の人かも知れない。
 守安は呆れて居る間に、娘は無遠慮に机の上の本を披(ひら)いた。本は守安の父、故本田圓の戦功を記した戦史である。

 娘は、
 「私だって本を読みますよ、麻子(アゼルマ)と共に学校へ行って、教育を受けましたもの。」
と言いつつ声を上げて読み始めたのは、丁度水塿(ワーテルロー)の激戦の所である。娘は驚いた様に、
 「ア、水塿(ワーテルロー)、水塿、」
と叫び、私は知って居ます。水塿(ワーテルロー)は私の阿父(おとっ)さんが戦争した所です。阿父さんは豪(えら)い人ですよ。人の命を助けた事も有るのです。その頃は今の様な乞食では無く、軍曹でした。」

 若し守安が此の言葉に気を付けたなら、水塿(ワーテルロー)の軍曹と言い、人の命を助けたなど言う語句で、父の遺言状を思い出し、我が父の大恩人と有った手鳴田軍曹の事を思い出さなければ成らない。けれど今は守安の心には、毎(いつ)でも「黒姫」が満ちて居て、手鳴田軍曹の入る余地が無い。イヤ実はその余地は有るのだ。今でも手鳴田軍曹を探し出さなければ成らないとの一念が、心の底に潜んでは居るけれど、今の此の言葉を良く聞かなかったのだ。


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