巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou94

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   九十四 陥穽(おとしあな)二

 果たして白翁が、四国兼帯の人長鳥の顔を知って居るだろうか。
 「此の顔に見覚えが有りましょう。」
と言う。長鳥の言葉は、確かに見覚えが無くては成らないと見込んで居るらしい。
 けれど長鳥は、白翁の未だ答えない間に、自ら室の中を見廻した。是から愈々荒療治を初めるのだから、万に一つも準備に手落ちが有っては成らないと、念の為に見廻すのだ。

 サア愈々蛇兵太に合図する時が来たと、此方から覗いて居る守安は思った。そうしてスハと言えば直ぐに引き金を引く許りに、確(し)かと右の手に短銃を握り、高く上に差し上げた。愈々大変な事とは成った。何の様に成り行くだろう。

 長鳥は部屋中を見廻して、準備の行届いて居るのに安心したのか、更に、今来た二人に向かい、
 「門八は何うした。門八は未だ来ぬのか。門八はお前等と一緒で無いのか。」
と問うた。門八とは何者か知らないけれど、長鳥がこう特別に重きを置いて、其の名を三度まで繰り返す所を見ると、余ほど必要の人物に違い無い。多分は此の破落戸(ごろつき)共の頭に立つ男なんだろう。事に由ると荒療治の序開きを担任して居る奴かも知れない。

 問われた男は答えた。
 「来たよ。一緒に来たよ。来たけれどネ、町の角にお前の娘が立って居たから、立ち止って話をして居た。」
 長鳥「娘とは何方(どっち)」
 男「姉の方よ、彼奴(あいつ)は、嫌にお前の姉娘を見ると目尻を下げやがる。荒っぽい気質に似合わぬぢゃ無いか。」

 長鳥「其の様な事は何うでも好い。其れよりは、馬車は好いのか。」
 男「オオ雇って来て此の入口に立たして有るよ。」
 言う所へ又一人来た。是が門八と言うのだろう。顔は紙の面を被って居る為分からないけれど、肩幅の広さを見ても、手剛(てごわ)い相手とは分かって居る。

 是で部屋の中は十人とは為った。何と言う物凄い様だろう。唯(たっ)た一人の白翁に九人の荒くれ男が掛かるのだ。イヤ其の中の一人は長鳥の妻だから、無論男では無いけれど、夫さえも雄牛の様だと評する程だから、事に由ると男二人分に相当するかも知れない。もう銘々が鉄の棒や、棍棒の様な物を持って、号令さえ掛かれば、直ぐに叩き伏せると言う様に用意して居る。中には出刃包丁を持って居る奴も有る。

 此の間に立って白翁は何うして居る。通例の人ならば、もう面色は土の如しで、立つ足さえ定まらない筈であるのに、抑(そもそ)も彼は何者だろう。驚く可し。驚く可し、此の九人に抵抗する様な態度を取っ居る。彼は長鳥が話をして居る間に又一歩下がり、自分の後ろへ敵を廻らせない用心だろう。壁に添って立って居る。そうしてテーブルを一方の小盾に取った様子は、千軍萬馬の間を踏み破った人に見せても、羨(うらや)まれる程だ。何と言う落ち着きさだろう。

 顔はまだ今までの通りの慈善紳士で有る。唯悲しそうな笑みだけが無くなった許かりだ。其の顔に凛とした勇気が、何所とも無く現れて、侵し難く見えて居る。とは言え、其の身には寸鉄をも帯びて居ないのだ。
 併し守安は此の健気な状を見て、密かに肩身が広い様に感じた。流石は黒姫の父である。是ならば後々に、守安の妻の父だと世間に披露しても恥ずかしく無い。アア黒姫は好い父を持って呉れたと、際疾(きわど)い中にも此の様な心が胸に浮かんだ。

 実に人間の健気な振舞いは、何の様な場合でも見る人を興奮させる力が有る。
 再び長鳥は翁に向かって言った。
 「此の顔に見覚えが有りましょう。」
 翁は長鳥の顔を見た。静かに答えた。
 「否」

 唯落ち着いた一語である。長鳥は少しこの落ち着きに驚いたか、直ぐに蝋燭を取り、その灯光(ひかり)を自分の顔に差し付けたまま、又翁の前に進み、是でもかと言う様に言葉に力を込め、
 「良く御覧なさい。私は濱田と言うのでは有りませんよ。長鳥と言うのも嘘ですよ。本当は手鳴田です。手鳴田軍曹です。モントフアーメールの宿屋の主人です。良くお聞きなさい。手鳴田ですよ。是でも貴方は見覚えが無いと言いますか。」

 白翁の顔には、或いは血色が走ったかも知れぬ。けれど少しもそうは見せなかった。そうして前の通りの口調で、
 「少しも」
と答えた。
 翁よりも誰よりも、手鳴田の名に驚いたのは、此方の守安である。暗がりだけれど、若し見る人が有ったなら、彼の顔が忽(たちま)ち幽霊にでも襲われた様に青ざめるのを見ただろう。イヤ幽霊どころでは無い。彼は落雷に打たれた様な者だ。

 壁から其の身体が独り離れて、蹌踉(よろめ)いて床の上に折れ崩れた。彼の心には絶えず父の遺言状の終りの文句が燃えて居る。
 「汝、此の人に逢ったならば、汝が可能な限りの力を以て、此の人に善を為せ。以て父の受けた命を反せ。」

 白翁の命を脅かして居る悪人が
 「此の人」
なんだ。



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