akutousinsi18
悪党紳士 (明進堂刊より)(転載禁止)
ボアゴベ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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悪党紳士 涙香小史 訳
第十八回
怪しい手紙に驚かされ、お仙嬢は綾部と共に馬車に打ち乗り、我が母の住むと聞く、丸屋町指して急がせた。其の道で馬車は利門町を通ることと為ったので、綾部は、先程有浦が、利門町に行くと云ったことを思い出し、此の辺りではないかと、何心なく左右を見る中、向う手に当たる家の前に、有浦の馬車があったので、さては此の家であるかと更に能(よ)く見ると、其の家の窓から有浦は顔を出して、外面を眺めて居たので、
「オヤ有浦君と声を掛けたが、有浦は心に何事をか考えて居る折と見え、其の声は耳に入らぬ様子だった。其の中に馬車は早くも行き過ぎて、一角二角廻って去った。頓(やが)て、手紙に在った、丸山町二十六番と記せし家の前に着いたので、綾部は先ず降りて家の様子を見ると、入り口の模様から二階の造り方まで、極めてあか抜けがしていて、通例の家とは変わっていたが、婦人の服を仕立てる家と聞いているので、この様に華美(はでやか)に造った者かと、別に怪しいとも思わず、お仙嬢を扶(たす)け降ろして、馬車を待たせ、共々其の入り口に登って行き、案内の鈴を引き鳴らすと、内より年若い下女が現れて来たので、綾部は先ず之に向かい、
「山田蔦江女に逢わせて貰い度(た)いが。」
と云うと、下女は怪しんで、
「其の様な方は居りません。」
(綾)では最(も)う病院へでも送りましたか。
(下女)貴方の仰る事は、少しも分かりませんが、若しやお門(かど)違いでは有りませんか。
(綾)イヤ、門(かど)違いでは有りません。此方(こちら)は花房屋で有りましょう。
(下女)ハイ、花房屋は当家です。
(綾)当家に雇われて居る山田蔦江女が、梯子段から落ち、怪我をしたと言って、今手紙で娘を迎に来たのですから、早く爾(そう)お伝え願います。
(下女)イヤ、此の家に、山田蔦江とやら云う人は有りません。
(綾)イヤ、無い筈は無い。此の手紙に。
と云いながら手紙を取り出し、不図(ふと)上封を見て、「かる女」と有るのに心附き、
(綾)イヤ、私の粗忽(そこつ)でした。矢張り此家の雇い人で、「軽」と云うお女中に逢いたいのです。
(下女)その様な女中は此家に有りません。
と聞き、さては此の下女、未だ新参で、雇人の名前を一々知ら無い者に違いない。徒(いたずら)にこの様な者と問答するより、主人に逢って聞いた方が好いと、
(綾)では、当家のご主人に面会を願います。
(下女)主人は、今朝田舎から帰ったばかりで、誰にも面会は致しません。
と云う折りしも、お蓮が二階の縁側に置いた鉢植えに、水を与えようとして、欄干まで出て来たのを、綾部の背後に従っていたお仙が、早くも見つけて、嬉しさに吾(われ)を忘れ、
「阿母(おっか)さん、アレ阿母さん、怪我は何(ど)うなさったのです。先ア、早く降りて来て、此所開けて下さいな。阿母さん。」
と呼び立てる声に、綾部も上を見上げると、昨日見た、山田蔦江女の質素な風とは打って変わり、人の目を奪うまで、華美(はでやか)に着飾ざっていた。
特に何の怪我をした様子も無いので、何か事の間違いに違いないと、心私(ひそか)に疑った。しかしながら綾部の疑いより、お蓮の驚きは更に大きく、二人の姿を見ると同時に、顔の色を替えて引き込んだが、漸(ようや)く心を落ち着けた者と見え、暫(しばら)くして階段の上まで出て来て、下女に向かって、
「今お目に掛るから、応接の間へ通してお呉れ。」
と声を掛けた。
是により、二人は頓(やが)て応接所へ入って見ると、四方の壁には、値高い額面などを掛け列ね、其の立派なことは、王侯の家と雖(いえど)も、之には及ばないと思われるばかりだった。二人は唯驚いて、言葉も無く見廻る中、お仙は片隅に掛けてある、最も大きな絵姿に目を留め、
「オヤ、阿母さんの姿が彼所(あそこ)に有ります。何とまあ立派です事。」
と云うので、綾部も之を見ると、有名な画工の筆に成る者にして、顔容(かおかたち)は蔦江女に相違ないが、数多の金玉を以って飾った、爛々たる服を纏(まと)っているのは、疑うまでも無い「デミモンド」の姿である。
余りの不思議に心奪われ、茫然として見ていると、お仙嬢は嬉しそうに、
「アレハ何ですよ、屹度(きっと)此の家の主人が、お客の注文で拵(あつら)えたのを、阿母さんに着せて試(み)たのですよ。」
と云った。この様な所へ、お蓮は、田舎行きの質素なる服に着け替えて入って来たので、お仙は其の首に纏(まと)い附き、
「阿母さん、怪我は何(ど)うしました。顔の色の悪い事。」
お蓮も合点が行か無い様子で、
「お前は先ア何を云うのだ。怪我などは仕ませんよ。」
(仙)だって、阿母(おっか)さんの下に使われて居る、「軽女」と云う雇い人から、阿母さんが怪我したと言って、迎いの手紙を寄越しました。」
お蓮は益々怪しんで、言葉も無く其の目を綾部の顔に注ぐと、綾部も既に様子の尋常(ただ)なら無いのに、疑いを抱いて居る際なので、進み寄って、彼の公園地で、手紙を得た次第を残らず話し、且つ其の手紙まで示したので、お蓮は空しく首を垂れたが、頓(やが)非常に深い溜息と共に顔を上げ、
「分かりました。曲者の仕業です。」
と口の内で呟(つぶや)いた。
呟く中にも其の顔は益々青くなり、果ては恐ろしさに耐えられない様に、唇までも震い始めた。
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