akutousinsi21
悪党紳士 (明進堂刊より)(転載禁止)
ボアゴベ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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悪党紳士 涙香小史 訳
第二十一回
話は前に返る。大尉有浦は歌牌(かるた)室で蘭樽伯に借り入れた金子を返す為め、利門町にある伯が家を訪(おとな)うと、伯は快く出て迎えて我が居間に案内したので、一通りの挨拶も済んだ後、金子を出して返そうとすると、伯は堅く此れを辞(いな)み、戯(たわむ)れ事の貸し借りは、真面(まじめ)の席で返済などするべき者では無い。他日又御身が独り勝った時に受け取りましょうと言って、幾度か推し返すのを、どうしてもと言い張り、漸く収めさせた。
この様な中にも有浦は篤(とく)《じっくり》と伯爵の様子を見ていたが、心に十分の親切があり、胸に一毫(ゴウ)《毛一筋》も曇りも無く、実に此の人こそ、完全な紳士の雛形であると迄に思ったので、我が身が、昨夜此の人の家に曲者を追い込んだ上、夜半に座敷中を捜索した事が、今更恥ずかしく、もっと事の次第を打ち明けて、充分に言い訳しなければ、何と無く我が気が済ま無い心地がするので、一際言葉を更(あらた)めて、
「伯爵、昨夜の一条は実に我が一生の大失策です。貴方に対し之れは言い訳の言葉も有りませんから、切(せ)めては事の本末を打ち明けてお詫びの一端(しるし)と致します。実は斯(か)く斯くの訳がが有りまして。」
と、是から概略(ほぼ)花房屋お蓮の身の上を話し、何者かがお蓮等を付け狙う事から、昨夜鶴女の家の外で曲者を認め、姿を変えて此の家まで追って来た次第を詳しく話すと、伯爵は聞き終わって、非常にお蓮等を憐れむの情と、又曲者を憎むの心を起こした様に、
「イヤ、夫(それ)では何(ど)うも大事の曲者を逃がしましたな。併し曲者が私の様子を知り、毎夜十二時から倶楽部へ出るなら盗みには都合が好いなどと言った所を考えますれば、其の曲者は必ず泥棒もする奴で、日頃此の家を狙って居ると思われます。其の中又も此の家へ忍び込まないとも言われませんから、若しその様な事でも有ったら、必ず捕えて貴方に引き渡しましょう。」
と言って、更に様々に有浦を慰め且つ励ましたので、
有浦は男ながらも男に惚れ、又と得難い吾友なりと思う迄に心が解け、何時しか言葉使いさえも、数年交わっている人と話す様に、君が僕がと応答(うけこたへ)する事と為った。しかしながら、交わりを結ぶには、互いに身の上を明かす事が肝腎なので、先ず我が経歴を告げた後、先の素性を聞くと、蘭樽伯は、祖父の代まで巴里に住んでいたが、祖父は商売気の有る人で、家を纏(まと)めて南アメリカに渡り、金山を開いて非常な財産を起こしたと云う。其の財産は直ちに祖父より父に伝わり、父より今の伯爵に伝わった。
伯爵は是まで、取引又は遊びの為、屡(しばしば)巴里に来た事はあるが、別に親しい友達と言っては無い。此の頃になって金山の業が、充分に栄える様になり、巨額の儲けを得たので、自然(おのず)と故郷が恋しい心地になり、金山を人に譲って一年前に此の巴里に引き移り、此の家を買って住む様になった。此の上は、唯安楽に世を送る望みなので、決まった妻をも迎へようかと思っているが、今もって心当たりの者も無いなどと、胸を開いて打ち語るのを、有浦は聞いて居る中、不図心裏に浮かぶ事が有った。
若しこの様な人に、彼のお仙を娶らせたならば、当人の仕合せは、云うまでも無く、お蓮の喜びは如何ばかりだろう。お仙は既に綾部安道に心を寄せる様であるが、綾部は物堅い貴族なので、詳しくお蓮の素性を聞いたら、婚姻の念を断つ事は必然である。蘭樽伯は年既に三十を越ているが、其の容貌と云い、人柄と云い、何一つ申し分が無いので、之をお蓮、お仙に紹介(ひきあわ)せ、親しく交わりを結ばせたならば、其の中には、親子の心は自然とこの人に向う事と成るだろう。
そうなれば、双方の仕合せは、これ以上の者は無いと胸に問い、胸に答えて早くも思案を固めたので、伯が言葉の終るのを待ち、
「成る程、是から永く巴里に住まう積りなら、君何(ど)うしても早く、妻を迎へなければならないだろうが、未だ心当たりが無いと言うならば、僕が及ばずながらお世話しようか。」
と云うと、伯爵も笑顔になり、
「是非願います。併(しか)し君、僕は少し望みが有るのだ。尤も此の年に成って選り嫌いをするのは、少々押しが強いと言われるけれど、僕はネ、充分に女の愛を得度(た)いのだ。僕を愛する心の有る女を貰いたいのだ。」
(有)夫(それ)は誰だって爾(そう)ともサ、自分を愛しない女なら無理に貰った所が仕方が無い。世間には随分自分を愛していない女を無理に貰うから、得てして奸夫(かんぷ)騒ぎだのと云う醜聞《スキャンダル》が起こるのだ。
(伯)実に其の通りだ。僕は先ア是と思う女が有れば、一年掛っても二年掛っても好いから、気永く其の女に親切を尽くし、其の女が充分僕を愛する様になる迄は、屹度辛抱する積りだ。
(有)ナニ夫(そ)りゃ君の身分で愛を得るのは訳も無いが、しかし君、全体何(ど)の様な女が欲しいと思う。
(伯)器量さえ十人並なら、何の様な女でも善いが。其の中でも、先(ま)ア、成るべく余り世間摺(ず)れをしていないが好いネ。
(有)イヤサ、何(ど)の様な身分の女が。
(伯)身分などは決して厭(いと)わ無い。仮令(たとえ)乞食の娘でも当人の心さえ正しければ。
(有)では心が正しくて器量が十人並で、夫(それ)で君を愛しさえすれば何でも好いと云うのだネ。
(伯)全く其の通り。
(有)夫(それ)では僕が一つお世話して見よう。実は先程話した花房屋お蓮だが、お蓮の娘と云うのが、母には似ず、未だ無垢の世間見ずで、器量と云っては此の上無しだ。何(ど)うだ君、僕が紹介するが。
伯爵は暫(しば)らく考え、
「イヤ、君と昨夜初めて逢ったばかりで、此様な事を話すのは、余り押し附けがましいが、君の方に差し支えが無ければ、紹介を願おう。僕も先程、其の女の話を聞き、心で憐れみを催して居た所だから、仮令(たと)え其の愛を得る事が出来無いまでも、逢って置きさえすれば、又僕の力で、其の女の為になる事も、有るかも知れ無い。
此の返事に有浦は非常に満足し、この様な人なので、一旦引き合わせれば、お蓮親子の為には、どちらにしても悪い事は無いだろうと思うので、好い機会を見て、引き合わす事を約束し、更に様々の雑話をした末、漸(ようや)く分かれを告げて帰って行った。
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