akutousinsi32
悪党紳士 (明進堂刊より)(転載禁止)
ボアゴベ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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悪党紳士 涙香小史 訳
第三十二回
有浦、綾部、蘭樽、猿島、山田の五人は馬の上で、思い思いに話しながら進んで行く。山田は最も気の開けた紳士なので、馴れ馴れしく綾部に向い、
「君、有浦君の朋友なら、早く我が党の倶楽部に入りたまえ。」
と云うと、猿島も傍から口を添へ、
「爾(そう)だ、君が入れば又歌牌(かるた)の仲間が殖えるから。」
(山)我党は皆白徒(しろうと)で、独り蘭樽伯が上手なだけだ。
(猿)爾(そう)さ、蘭樽は余り上手過ぎる。此の頃は毎晩、僕の金を三百円位づつ分奪(ふんだ)くるもの。僕は今に乞食に成るよ。
(有)猿島君は負けても好いワ。銀行の頭取じゃないか。
(山)綾部君、是非加盟したまえ。
(綾)イヤ、僕は歌牌(かるた)を知らないので。
(猿」爾(そう)だろうとも、君位の若い時にゃア、美人の方へ心が寄ってサ、僕なども十年前までは、女の子で忙しくて、歌牌(かるた)など引く暇は無かったのだ。
(有)爾(そう)さ、出来無い女を無理に拵(こさ)えるには、中々骨が折れるからナア。
(猿)所が此の頃、又新しいのが出来たから奇妙サ。
(山)ソレ、又始まった。英国の女皇にでも惚れられたたのか。ハハハハ。
(猿)ナニ、其様(そん)なホラじゃ無い。丸池お瀧という当時売り出しの新造よ。
(山)コリャ驚いた。彼(あ)んな者に。
此の時、綾部はお瀧の名を聞き、充分に耳を澄ました。
(猿)イヤ君達は、未だ此の道に掛けては幼児だ。成る程諸君は、お瀧嬢の顔を幾度も見ただろうが、心の中を見抜いたのは、僕独りだ。実に感心な女だぜ。
(山)爾(そう)さ、損料馬車を当合(あてが)われて喜ぶとこなぞア。
(猿)イヤサ、雑返(まぜっか)えすから了(いけ)ないよ。君達は女を見れば、直ぐに金を遣(つか)い、無暗に物を取られて喜ぶけれど、僕なんぞは爾(そう)じゃ無い。其の心の中を見抜いて、適当な技芸を教えて遣る。
(有)夫は親切だ。
(山)成る程。其の真似は出来ないよ。アハハハハ。
猿島は真面目になり、
「イヤ、後々為になる事を教えるのが親切と云う者だ。女をコロコロさせるのは親切が一番だ。僕は今、お瀧嬢に馬乗りと音楽の稽古をさせて有るが、喜んで勉強するぜ。
此の時、蘭樽と有浦は他の三人から少し後になって、何事をか話して居たが、頓(やが)て唯一人三人の所へ進んで来た。
「蘭樽は用事を忘れて居たって、今後ろへ引き返えしたぜ。」
(山)フム、彼奴(きゃつ)、近日婚礼すると云う説だから、何か其の用事だろう。
(猿)ナニ彼の様な奴は居無くて善い。僕は嫌いだ。
(山)君、其様(そん)なに友達を誹るのは痛(ひど)よ。
(猿)彼奴は僕の友達じゃ無い。僕は最う彼奴の様に、歌牌で勝つ奴は大嫌いだ。
(有)デモ君は長く蘭樽と懇意じゃ無いか。
(猿)ナニ、彼奴、此の頃米国から来て、初めて懇意に成ったのだ。米国に居る僕の友達から、紹介状を貰って来たから、倶楽部へ入れて遣ったのサ。最ふ彼奴の為には何万円と云って取られたぜ。
(有)君、夫では蘭樽の身の上を知らないのか。
(猿)何、知る者か。誰の子だか、何所で生まれたか。僕は探偵じゃ有るまいし、自分の懇意にする人を、一々原籍から探って掛りゃしないさ。唯先がニコニコして交際(つきあい)易いから交際(つきあう)のだ。
この様に愛想も無く言われては、外に問うべき事も無いので、有浦は綾部に向い、君に少し相談が有る。此の先まで一緒に来て呉れないか。
綾部は素より断る可き筋が無いので、早速承諾すると、有浦は山田と猿島に向かい、僕と綾部は是で失敬するから。
手軽く別れを告げて馬を急がせ公園地を走り抜けて、往来も稀な片側(かたかば)町に出た。
(有)君、馬などを買い入れた所を見ると、当分故郷へは帰ら無い積りと見えるナ。
と出し抜けの問いに、綾部は其の心を知らなかったが、
「少し用事が出来たから。」
(有)イヤサ、用事などと隠さなくても好い。君は未だ、お仙の事を思って居るのだろう。
(綾)若し思って居るとすれば何だ。
(有)イヤ、一昨日、一寸話した通り、お仙は愈々(いよいよ)婿夫を取る事に成ったのだぜ。
(綾)其婿夫とは蘭樽伯だろう。
(有)爾(そう)だ。
(綾)フム、爾(そう)だろうと思った。併(しか)し、夫(それ)でも好い。僕は当分巴里に居るよ。
(有)お仙を蘭樽伯の女房に仕無い積りだろう。了(いけ)ないよ。止したまえ。到底駄目だから。
(綾)駄目は知って居るが、僕は彼(あ)の曲者を、見付け出す積りだから。
(有)夫(それ)も駄目だ。僕が彼(あ)れ程骨折ったけれど、見出す事が出来なかったもの。夫に曲者は何も君の敵では無い。お仙等の敵だぜ。
(綾)爾(そう)とも。僕の敵ならナニ打ち捨てて置くけれど、お仙等の敵だから、一層打ち捨て置かれ無いのだ。と云ってお仙は最う勿論僕の女房には成ら無いだろうが、夫(それ)でも僕は其の敵を無くして安心させて遣る。
(有)君の心掛けは感心だけれど、お仙を保護するのは、今から後は、其の所天(おっと)である蘭樽の役目で、君が手を出すのは、もう余計な事と云う者だ。
(綾)余計な事で迷惑なら、蘭樽伯が自分で来て僕に断るが好いじゃないか。
(有)君は爾(そう)云ふから了(いか)ん。君先ア考えて見たまえ。自分の女房でも無い女を、骨折って保護するのは、縁の下の力持ちでは無いか。
(綾)縁の下の力持ちでも、僕は少しも恥かしいとは思わない。蘭樽の様に金に目を呉れて、お仙を望む者とは違うから。
(有)夫(それ)サ、夫が間違いだ。蘭樽は決して金の為じゃ無いよ。
(綾)無いか。
(有)無いかは蘭樽の心に在る事で、君と争っても水掛論だ。
(綾)夫(それ)より君、曲者は何時から姿を隠したのだエ。
(有)お仙が君に愛想を尽かしたと云って、分かれた翌日から。
(綾)夫では曲者の目的は、唯僕とお仙の間を割くだけの事に有ったのだ。詰まりお仙を自分の方へ取る積りで有ったのだ。多分僕を邪魔に思った曲者が、蘭樽を邪魔に思わ無いのは不思議じゃ無いか。
(有)何不思議じゃ無い。蘭樽を恐れて近寄ら無いのさ。
(綾)シテ蘭樽は、初め何うしてお仙と懇意に成ったのだエ。
有浦は是に於いて、曲者がお仙を攫(さらっ)て行く所を、蘭樽が救った顛末を話すと、綾部は益々疑う様に、
「夫(それ)は蘭樽の為に、余り都合が好く出来過ぎているじゃ無いか。」
(有)ダッて少しも怪しい事は無い。蘭樽は何も知らずに停車場から帰る道で有ったのだ者。
(綾)成る程、 その様に恩に逢ったなら、お仙が蘭樽の女房になるのを承知したのは尤(もっと)もだ。義理として否とは言え無い。併し僕は余り奇妙過ぎるから、其の恩人を疑うネ。実際其様に物事が旨(うま)く行く者じゃ無いもの。
(有)夫(それ)では君は蘭を疑うのだな。自分でお仙に恩を着せる為に悪者を雇い、夫にお仙を攫(さら)わせて、夫を偶然らしく見せ掛けて、自分が救ったと云うのだナ。
(綾)先ず其んな者さ、夫に僕がお仙の婿夫と極まって居た時には、無暗に邪魔をした曲者が、蘭樽がお仙の婿と為れば、隠れて仕舞ったから、曲者は蘭樽の為に働いて居るとしか思われ舞い。
(有)爾(そう)云うから了(いけ)ん。蘭樽は其の前から、僕が紹介して、お仙等に逢わせる筈に成って居たから、何も曲者などを使ふ訳が無い。夫にアの夜、蘭樽は曲者の一人を半死半生に逢わせたもの。若し自分の使う曲者なら、決して彼(あ)の様に痛(ひど)い目には逢しは仕無いワ。併し今君は、心が穏やかで無いから、此の上何を云っても到底論が合わ無い。言うだけ無益だ。僕は最う分かれよう。
之で有浦は分かれ去った。嗚呼、綾部の疑う様に、蘭樽は果たして曲者の巨魁であるか。将(は)たまた、有浦の言う様に、全くの紳士であるか、其の判断は読者に任す。
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