巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

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美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人 共訳 

            第十回

 「私はこの通り唯父を助けたいばかりに、梅林の妻と為りましたが、その甲斐も無く、父は婚礼の翌年死し、伯母も続いて亡くなりました。それで是からは益々私は婚礼の事を後悔し、こう早く死ぬものなら、一層その傍に居て貧しいながらも介抱すれば好かったのにと、その心を梅林にも話ますと、梅林も益々又私を憎む事となり、昔の愛に引き替えて、それはそれはお話にも出来ない程の事になりました。

 可愛さ余って憎さが百倍とか言うのは、実に梅林の心の事だ思います。尤(もっと)も見苦しい喧嘩などは致しませんけれど、内に居る間は顔を合わせる事さえ無く、偶々(たまたま)合わせれば、両方とも口を利かず、顔をしかめて白眼(にら)み逢うばかりです。何うかして口を利けば、互いに詰らない事をした。止せば好かったと云うだけです。

 是ほど仲が悪いのに、世間へは仲が好い様に見せ掛けて、一緒に暮らすその辛さなどは、並大抵の事では有りません。それでも何時の間にか世間では、この事を知り、仲直りをするのが好いだろうなどと言った者も有りました。ですがせめてもの幸いには、梅林も私も世間の人から好意を持たれ、家で一週間に一度づつパーティーを開けば、客の仲へ入れて呉れと、伝手(つて)を求めて申し込んで来る方も有り、又私共二人を客として招くのも有り、後にはもう二人とも社交の方へ身を委ねて、憎しみの心も幾分か紛れて居ました。

 この様にする中に、先日の事と為りましたので、成る程世間で私を罪人と思うのは、無理は有りません。けれども私は夫を殺すなど、その様な恐ろしい心は更々無く、アノ珈琲を注いだのも、全く親切の心からです。奇妙な事には、その珈琲を注いで直ぐに我が部屋へ帰ってから、独り考えて見ますると、梅林の身の上が気の毒に成り、仮令(たとえ)無理な婚礼とは言うものの、私を妻にした為に、こうまでも苦労をすることになった。若し外の女を迎えたならば、充分に愛せられて、幸せに暮らされる身分なのにと、こう思えば、私の仕打ちにも悪い所の有る事が分かり、今夜小宴(パーティー)が済んだなら、優しく慰めて見ようと思って居ました。

 この心が早く浮かぶか、そうでなければ、梅林が今少し生きて居れば、終には私と仲が直り、本当の夫婦に成ったかも知れません。今でもそれを思えば可哀相で成りません。」
 雪子はこの様に延べ終わって涙に咽(む)せんだ。身も引き締まるように静かに聞いて居た弁護人服部勤も溜息と共に顔を上げ、

 「成る程その様な訳ですか。他人ながらも梅林の身の上は実に可哀相です。だからと言って、それでも貴女が彼を憎んだのも全く無理とは思われません。併し是まで伺った所では、少しもこの犯罪の参考になる所は有りませんが、この外に何か洩れた事は有りませんか。」

 雪「イエ、もう少しもお話申す事は有りません。」
 服部「ハテな益々分からない。今までは、貴女の身の上話を聞けば何とか手がかりを見出すで有ろうと、それを待って居りましたのに、是では何の手掛かりも無く、だからと言って、独りで譽石(よせき)が硝器(コップ)の中に入ると云う筈も無い。

 若しや牛乳か砂糖の中にーーイヤそうでは無い。牛乳か砂糖に入って居れば、外の人も死ぬ筈だが、証拠と言う証拠は、悉(ことごと)く貴女に指(ゆび)を指して居ますけれど、これは唯事情が疑わしいと云うだけで、確かな証拠では無い。私には少しも分かりません。何と弁護をして好いか殆ど当惑の到りです。

 雪「私が既に自分で合点が行かず、若しや夢では無いかと思う程ですから、他人の貴方がそうご不審に思うのは最もです。それにしても服部さん、何故私はこの様な辛い疑いを受けるのでしょう。今まで虫一つ殺さないのに、何の因果で牢の中へ入れられる様に成りましたろう。何度申しても同じ事で、私には決して覚えの無い事ですのに、是だけの証拠が有れば、陪審官が私を罪の有る者と思いましょううか。」

 服部は非常に言い憎(に)くそうに、
 「それは私にも分かりません。貴女を安心させ度い為めに、イエ罪には落とされませんとは申うすことが出来ず、だからと言って無益のご心配を掛けるにも及びません。是はもうその時を待つ外は有りません。」

 雪「もう一つ貴方に伺って置き度い事が有りますが。--でも何(ど)うも、お問い申すのさえ恐ろしくてーーー。」
 服部「イヤ、何の様な事柄ですか。御遠慮無くお問いなさるが好ろしゅう御座います。」
 雪「イエ、問うのは好いが、貴方のご返事が恐ろしゅう御座います。」
 服部「とは又何う言う事柄ですか。」
 雪「ハイ、若し私に罪が有ると定まれば、私は死刑とやらに成りましょうか。」

 服部はこの問いに打ち驚き、宛(あたか)も我が顔色を悟られまいと思う様に、暫(しば)らく首を垂れていたが、やや有って顔を上げ、
 「それは私しにも分かりません。」
 雪「若し、万一にも死刑に処せられ相な恐れは有れば、私は充分に今から好く覚悟をして置き度いと思います。若し思い掛けも無く、その様な恐ろしい言い渡しを受ければ、私はーーー何の様なーー見苦しい事をするかも知れません。---。エ、貴方、万に一つ死刑に処せられるかも分からないと思いますか。」

 服部は思い切って、
 「ハイ決して死刑には処せられないと、当てにする事は出来ません。」
 雪子はこの一言に全く顔の色を失い、
 「真実、罪も覚えも無い者を、死刑に処するとは余りな事です。誰も救って呉れる者は無いでしょうか。」

 服部「若し救われる者ならば、私が救います。」
 雪「若し貴方の力に及ばないならばーーー。」
 服部「それは何うも致し方が有りません。唯神の力を祈るばかりです。貴女は神の御心を動かす様に、お祈りなさい。昔しダニエルと言う人は、獅子の穴の中で神に祈りました。神は彼を助けました。又昔イスラエルの人達は火に焼き殺されるばかりの所を神に祈って助かりました。貴女も充分に神を祈れば、たとえ絞首台に登っても、救われないとは限りません。ハイ、この上頼むのは、神ばかりです。」

と漸(ようや)く雪子の心を励まし、服部は打ち萎(しお)れて別れ去った。
 アア雪子、なんと憐れなこと。なんと悲しいこと。



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