巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

bijinnogoku13

美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

since 2015.9.18

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人 共訳 

            第十三回

 今日は是れ二十四日、公判は未だ二日の前に在る。二十一号の囚人は、今から四十八時間を出ずにその運命が定まるに違い無い。如何に定まるだろう。無罪として放免せらるとも雪子は元の雪子では無い。牢屋の汚れを身に纏(まとっ)たものとして、生涯人に斥けられ、今までの雪子はその夫と共に、パーテイーと言うパーティーへは悉(ことごと)く招かれて、社交界の女王とまでに立てられていたが、放免後の雪子は、唯一人世に捨てられ、友として頼む人も無く、空しく生涯を憂ひに沈めるに違い無い。

 況(ま)してや、放免を望むことは難しい。若し有罪と定まったなら、絞首台に上されるばかりか、後々までも恐ろしい毒婦の見せしめとして人の口端に掛かり、聞く人に身震いされるに違い無い。是を思い彼を思って、二十一号の囚人は、今日も朝から唯祈り、唯泣き、唯打ち鬱(ふさ)ぐばかり。

 昨日親切に食事を勧(すす)めて呉れた牢女は、如何しただろう。憐れな二十一号の囚人を忘れたのだろうか。牢女は、未だ忘れて居ないと見え、一個(ひとり)の面会人を案内して入って来た。アア二十一号の囚人に面会人、今まで世間に持て囃(はや)されていた雪子が、牢に下ってからは、全くこの世に忘れられたかと怪しまれるばかりで、誰一人訪(おとな)う人が無かったのに、今面会を求めるとは何人だろうか。

 見れば年若い紳士にして、美しと言うよりは男らしく、鼻高くして眼涼しく、眉の毛の秀でた、口許の締った、実に男子社会の一好男児である。牢女はこの人を後に残して退いた。雪子は面会人と聞いて飛び立ったが、又浅ましいこの有様を見られる辛さからか、我知らず両の手を顔に当てた。

 紳士も一目で早や非常に心を動かした様に、
 「貴女はーーー何うしてこの様な所にーーー。」
 雪「でも私の身は汚れて居ません。」
 紳士「素より汚れる筈が有りません。誰が貴女に罪が有るなどとーーー。」
 雪「ハイ、私の夫が指差しました。」

 紳士「梅林氏が指さしても貴女の清い事は分かって居ます。何で貴女が罪などを犯しましょう。私は梅林が死んだことよりも、貴女に指(さ)したアノ指が恐ろしいと思いました。今日は様々な手数を尽くし、貴女に一時間ばかり面会の許しを得て参りましたが、お目にかかれて何よりの幸いです。」
 雪「イエ、この御親切は忘れません。夫と懇意にして居た人も、誰一人来て呉れません。」

 紳士「イヤ、もうどちらも余りの事で、途方に呉れるばかりです。私も三度まで面会願いを却(しりぞ)けられましたけれど、お目に掛かからねば成らない事が有りますので。」
と言いながら、窓から射(さ)す薄明かりに透かし、雪子の顔を見て、余りの美しさに言葉さえも直ぐには続かず、浮世に在った頃から見れば、この様に窶(やつ)れた中に、又一層の趣きを添えた所があった。

 真実の美人は、悩むも苦しむも、泣くも笑うも、窶(やつ)れるも年取るも、美しくないと云うことは無い。雪子の様な人は、その類の美人と言うものだろう。
 雪「好くまあ尋ねて下さいました。冬村さん、貴方のお顔を見れば、貴方が外の方々と共に、死んでいく夫を抱き抱えて居らしった、その時の恐ろしい有様、恐ろしいアノ指が目に見えます。誰がアノ毒を呑ませたのでしょう。」

 この紳士は、当夜客と為って居合わせた一人、冬村凍烟(とういん)である。雪子は四人の客の中で、何と無く冬村を嫌っていたと言ったけれど、この様な場合に臨んでは、唯その親切に感謝ずるばかりである。
 冬「誰のした事ですか。それさえ分かれば、ナニも貴女にこの悲しみは掛けません。現在貴女で無い事は分かっても、本人が分からないので。」

 雪「ハイ私では有りません。誰でしょうか。実に不審で成ません。」
 冬「ハイ、私もこの事ばかり考えて居ますけれど、考える度に当夜の有様を思い出します。もうこの事は言いますまい。今日参ったのも全く外のお話です。それも、若し梅林安雅殿が未だ生きて居るならば、私は黙って居ますが、今は言い出しても罪に成りません。言わずに居る事は出来ません。」

 アア何事を言い出そうとするのだろう。雪子は唯その言葉を待つだけである。
 冬「貴女が牢の中に居らっしゃるのに、この様な事を言い出す場合では有りませんが、ハイ言い出すのは場所が違いますが、私には猶予が出来ません。場所柄を考えない者と何うかお咎めなさらない様に。」
 「何で私が咎めましょう。」

 冬村は顔に燃える様な光を現し、
 「私は貴女を愛します。私の心私の霊魂(たましい)は総て貴女を愛します。三年前に初めて貴女を見た時から、貴女は外の女と違い、私の為には命より貴いと思いました。その頃は貴女に夫が有り、私は唯心の中にその愛を圧付け(おしつ)けて居ました。貴女の為には何事も構いません。貴女が聞いてさえも恐ろしい、告訴を受け、牢の中に沈んで居るその悲しんでいる時をも忘れて、私はこの詞(ことば)を言いに来ました。」

 雪子はこの切なる言葉も、余り意外なことだったので、容易には理解出来ず、唯目を見開いて冬村を眺めながら、
 「私は人殺しの嫌疑を受け、この通り牢に繋(つな)がれ、明後日は事によっては、命までも無い身ですが。」
 冬「ハイ、貴女が困難に迫れば迫るほど、私の愛情は募ります。仮令(たと)え何の様な疑いを受けるにしろ、貴女がここに苦しんで居ると思えば、一刻も言わずには居られません。ハイ、黙って貴女の苦しみを見て居る事が出来ません。」

 雪「でも明日にも殺されるか知れぬ者を、その様に仰るのは、御冗談と思われます。」
 冬「何して冗談ーーー、貴女は最も心を励まさなければ成らない時です。世間の人が、皆貴女の罪を疑って居る間にも、真実貴女を愛し真実に貴女の清き事を信じ、貴女の為には火でも潜(くぐ)る者が有ると思えば、必ず心に励みが出ましょう。」

 雪「励みが、ハイそれは出ましょうが、出たとしても殺されるのは同じ事です。それに又、今まで貴方が私を愛するとは夢にも思いませんでした。その様な素振りもお見せ成らずに。」
 冬「ハイ、主ある者を愛しては成らないと、素振りは見せませんでしたが、片時も忘れる暇は有りませんでした。それに梅林安雅殿とは、一方ならない懇意の間である事ですので、若し今でも生きて居れば、生涯私は無言(だま)って居ます。我が愛を隠して死にます。今は貴方に友も無く身寄りも無く、広い世間に唯一人では有りませんか。私の愛に従い、私を唯一人の友とする事は出来ませんか。この愛が分かりませんか。」

 冬村の熱心な有様には、雪子も只管(ひたすら)に驚くばかり。
 「でも今まで貴方が、私を愛して居らしったとは思われません。」
 冬村「愛して居ない者が、何(ど)うしてこの牢へ尋ねて来ます。何うして貴女の前に拝みます。」
と又他事(よそごと)も無いこの有様、雪子は返事する言葉も知らず。
 「暫らくお待ちなさい。貴方のお言葉を心に落ち着け、篤(とく)と考えて見ますから。」
と言いながら目を閉じて考えていた。非常の時に非常の事、目を閉じて考えるのも無理は無い。



次(第十四話)へ

a:601 t:1 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花