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美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)
ボア・ゴベイ作 黒岩涙香、丸亭素人 共訳 トシ 口語訳
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美人の獄 黒岩涙香、丸亭素人 共訳
第十八回
本件美人の獄は、前回既に説き示す様に、事実頗(すこぶ)る錯綜(こみい)っていて、容易には判断が難しい犯罪である。雪子を誠の罪人として検察官の論告する所、雪子は不幸な嫌疑者にして、無罪潔白の善女であるとして、服部勤の弁護する所、共に等しく一点の事実を争うに過ぎず。雪子の化粧箱から、譽石(よせき)の一袋を発見したことは、雪子の生死の繋がる所で、苛且(かりそめ)ならない事実である。
検察官はこの事実を盾として、雪子の有罪を主張し、服部勤はこの事実を元として雪子の無罪を弁明した。検察官の主張する所、服部勤の弁明する所、何れがその当を得たるものだろう。之を決断す可(べ)き傍聴陪審官は、非常にその脳漿を悩ますことになるに違い無い。之を傍聴した公衆の意見(おもわく)は如何だろう。
今まで澄み渡っていた公判廷は、弁論終結の達しと共に、此処彼処(ここかしこ)に語り合う声の喧(かま)びすしく、甲は雪子の無罪を唱え、乙は雪子を有罪と呼んだ。試みにその数の多少を計(かぞ)えて見るに、憐れむべし、公判廷の傍聴席は、雪子の有罪を鳴らす声の多いのを聞いた。
この声を聞く雪子の心中は如何(どんな)だろう。悲しいか、苦しいか。外(よそ)ながら心を悩ます者は、傍聴席に耳を側だてる冬村凍烟である。雪子は未だ唯夢中に徨(さまよ)っているだけ。青冷めた顔色は喜怒哀楽の情を浮かべては居ない。
身は重罪公判廷の欄干(てすり)に寄りかかって居るが、少しも恐れて居ないものの様だ。服部勤がその身を忘れて雪子の無罪弁護しているが、それを少しも喜ばないものの様だ。
目は既に暗み、耳は既に潰(つぶ)れて、闇夜に立っている聾者に異なら無い。唯恍然(うっとり)として服部勤と並んで椅子に寄り、間々幽(かす)かなる声を放って神を祈るだけ。嗚呼憐れむべき雪子の姿、凄(すご)いまでに衰いた顔色は、一層美人の品位(くらい)を高めるの観(ながめ)あり。この時陪審官は再び出て来て、
「宣告、宣告」
と呼ばわる声が聞こえて来たので、法廷再び寂として物音なし。雪子は果たして無罪を言い渡さる可(べ)きか、はた又有罪として刑罰を言い渡される可(べ)きか。万廷の人々、息を殺して陪審官の口の開くのを待ちかねている。今まで知覚を失っていた被告雪子は、裁判宣告との声を聞くや、身を躍らして椅子を離れ、細く玲瓏(うららか)な声を張り上げ、
雪「暫らくお待ち下さいまし。何卒(どうぞ)暫らくお待ちを願います。若し私を誠の罪人と認定しての御宣告で御座いますれば、所詮私はこの世には、生きて居られない身の上と成ります。生きて居たくは御座いません、生きて罪名を蒙(こうむ)るよりは、死んでこの世を去った方が未だ増しでございます。何卒(どうぞ)裁判官のお慈悲を以って死罪に行われるよう願います。」
と両手を握り歯を食い噛(くいしば)り思い切って言い放った。
裁判長は之を聞いて、暫しは言葉も無かったが、漸くにして雪子に向かい、
判「梅林雪子、本官は、汝が夫を毒殺したりとの被告事件に就いて随分精密なる取調べを尽くし、少しもいい加減には致しては居ないぞ。数名の証人を取調べ、永く弁護人の弁論を聞いて、少しも汝の利益を害した事は無いぞ。汝も今は不足に考えるとことは無いであろう。
然るに唯今陪審官の意見を承(うけたま)われば、汝の被告事件に就いては、未だ有罪無罪のご決定に到らないとのことじゃ。そういう事なので、本官は汝に対して最早汝の身には露ほどの罪は無く、全くの潔白の梅林雪子だから、その積もりで法廷を退けよと云う楽しい詞(ことば)を発することは出来ない。汝に対する被告事件は、依然として動かないけれども、陪審官に於いては、唯罪の有無を決定するに至らないと言うことなので、その積もりで速やかに当法廷を退いて再度の沙汰を待つのが好いだろう。」
と言う裁判長の詞(ことば)を聞き、雪子は続いて、
雪「全く私は、罪を犯した覚えが御座いません。誠に潔白な雪子で御座います。この様に潔白な私を罪人と認定せられることが御座いますれば、最早この世に正しき道理の無いものと諦めます。この上は神の御明断を仰ぐの外は御座いません。」
と嘆き訴えた。
判「汝の言う所は、決して無理では無い。併し本官は、今日之を何れとも言うことが出来ない。又陪審官が如何なる御意見を持たるかも知ることが出来ない。しかしながら、汝は汝に反対して、汝を悩ませる証拠と、汝の利益と為り汝の満足を来たす証拠とは、互いに五分五分であると云うことは記憶して居るが宜しいぞ。弁護人は早速被告を連れて自宅へ帰るが好かろう。」
とこの裁判長の一言を以って梅林雪子に対する公判は一先ず終局を告げた。
大英国全州及び遠く仏蘭西の人心をさえ激動させた美人の獄も遂に陪審官の決定する所とはならずして、雪子は一度自由の身となった。雪子は果たして罪が無いのか。然らば誠の罪人は何人であるのだろう。雪子は誠の罪人であるか。然らば何れの日を以って刑罰を言い渡さるべきだろう。唯陪審官は、今之を決定する頭脳を有して居ない。
前後三日の間、殆ど職を忘れ、業を棄て、公判廷に詰め掛けた数万の傍聴人をして、呆然として望みを失わせることとはなった。この様にして雪子は、弁護人服部勤に伴われ、そのまま裁判所の一室(ひとま)に入って疲れを慰め、後の事どもを語り合い、漸く手を携へてこの室を立ち出ようとした時、丁度一人の小使が俊足(はやあし)に入って来て、
小「唯今書面を以って面会を願い出て、是非雪子が当庁から引き取らない以前に逢いたいとの事で、直ぐ聞き届けたので、今之へ来る筈だから、暫らく帰るのを見合わせて、此処で逢うが好かろう。」
と言い捨てて立ち去った。雪子と服部は非常に不審気(いぶかりげ)に、
雪「服部さん、誰で御座いましょうネ。」
服部「サー、私にも鑑定が就きません。誰だか知りません。」
と語る途端に入って来た一人の男子(おとこ)があった。
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