bijinnogoku19
美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)
ボア・ゴベイ作 黒岩涙香、丸亭素人 共訳 トシ 口語訳
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美人の獄 黒岩涙香、丸亭素人 共訳
第十九回
入って来たのは別人では無かった。先程から公判廷の傍聴席に在って、雪子の為に万歳を唱(とな)えた冬村凍烟である。服部勤はそうと見て、雪子に向かい、
服部「私は後で参ることに致しましょう。冬村さんがお帰りの後に・・・・・」
とこの部屋を出て行くと、冬村は入れ代わりに雪子の向かいに座を占めた。雪子は厭(いと)わし気に、
雪「冬村さん、私に喜びを仰ることはお止し下さい。未だ私の身は、この末如何(どう)成るか分かりませんから。」
と眉を顰(ひそ)め、頭を垂れたのに引き替えて、冬村は勇み立ち、
冬「何故です。私は充分に祝賀を表し、大杯を挙げて貴嬢の無事を祝さなければ成りません。あの大勢の傍聴人が、過半貴嬢を有罪だと評判して居たのに、到底陪臣官の決断がつかなくて、裁判の宣告が出来なかったでは御座いませんか。それと云うのも、貴女に罪が無いと言う証拠が有るからの事です。最早箇様(こう)成った以上は、貴女の無罪は立派なものです。それを如何して祝せずに居られましょうか。私は飽くまで祝します。実に嬉しくて堪(たま)りません。貴嬢の身に影を差した不祥な雲は、もう全く晴れて、再び私が貴嬢を愛する情を照らすことと成ったのです。誠に私は満足に思います。そこで貴女にお話申す事が有りますが。
と改めて言い出すと何だか可笑しい様ですが、実は貴嬢の気質から容貌から、一々私の心にかなって、深く貴女に思い込みました。独り私ばかりでは無く、世間で貴女を見る人は皆心を動かさない者は有りません。私の目から見ると、世間は広いが貴女と比べる婦人が有りません。私は貴女の為なら、如何な事でも為(す)る気です。
ソコデ貴女にお願いが有るのですが、嫌で無ければ今日から私の妻と為っては下さらないでしょうか。私は貴女を妻として、天晴れ世間に誇る気です。スレバ実に私の名誉です。是非聴き入れて下さい。そうすれば、将来誓って貴嬢に愉快な生活を与えます。私は貴嬢の為に生き、貴嬢の為に死ぬと決心します。是非聴き入れて下さい。異存はないでしょう。」
と、急(せ)き立てるように口説き掛ける冬村の言葉を聞き、余りの事に雪子は非常に驚き、
雪「冬村さん、ご冗談を仰ってはいけません。」
と言い放つと、冬村は周章(あわて)て、
冬「イイエ、決して冗談では有りません。本気です。全く私の赤心(まごころ)です。」
雪「貴方の赤心なら猶更のこと、私の身に取っては、実に恐ろしいお言葉と存知ます。誠に折角の思し召しでは御座いますけれども、重ねて仰せ無き様に願います・・・・・。アア如何したらいでしょう。」
と溜息を吐(つ)いて座を離れ、尚も言葉を継ぎ、
雪「冬村さん、その事ばかりは、貴方が如何(いか)程仰せに成りましても承知は出来ません。自分の気に叶わない結婚をすると、ひどい怪我が御座います。現在貴方がご存知の通り、私が嫌だと思った結婚の果ては、この有様では御座いませんか。この上また貴方の思し召しに従って、恥や苦労を増す日には、この雪子は丸で責め殺されるのも同様です。
何卒(どうぞ)そればかかりは御断念を願います。私は貴方が御親切に色々お世話を下さった、その御恩は少しも忘れは致しません。死んでも覚えて居る積もりで御座います。左程に御恩ある貴方と、今ここで心にも無い婚姻を結んで、若しや貴方に災難でも有った時には、貴方に申し訳けが立ちません。丸で御恩を仇で返す道理で御座いますから、結婚ばかりは、思い止(とどま)って頂き度(と)う御座います。」
と雪子は思い定めて、固く冬村の求めを却(しりぞ)けた。
冬「貴嬢が幾等嫌だと拒まれても、もう私は思い止まる訳に行きません。貴嬢がウンと承諾するまでは、何所までも貴方の後について行く決心です。」
冬村もまた一旦恥を忍んで言い出したからは、一歩も退かない顔色で、引き返す様子も見えない。雪子は大いに持て余し、
雪「仮令(たとえ)貴方が何所までついてお出でに成りましても、私の心は変わりません。貴方の御思召しに従う訳には参りません。」
と雪子は動く景色も無いので、冬村は太い息を吐き、
冬「それでは如何しても貴嬢は、私の頼みを聞いて下さらない考えですネ。宜(よろ)しい、致し方が有りません。ダガ貴方は今から何所に行く積もりですか。今後貴女は何所に居りますか。」
雪「今からはっきりは分かりません。未だ私の気持ちが極まりませんもの。」
冬「何所に行くのも貴女の自由で有りますが、併し責めては、貴女の居る所位は、手紙ででも通知して下さりましょうネ。」
雪「ハイ、この外に未だ何かお話の事が御座いましょうか。左様で無ければ・・・。」
と言葉の外に意味を持つ雪子の問いに、冬村は愈々(いよいよ)望みを失い、この有り様では、所詮我が情欲を達すべき見込みは無い。何時まで此処に躊躇して、更に憾(うら)みを増すよりは、疾(とく)この席を退いて策を立てるのに優ることは無いと、悄然(しおしお)として別れを告げ、そのまま部屋を走り出た。
この時、丁度服部は再び此処(ここ)に入って来て、今冬村の語ったこと、又た雪子が答えたことを審(つぶ)さに聴(き)こうと思ったが、故(ことさら)に問いを起さず、
服部「先程貴方から今後の身の処置方に就いて御相談の一条も有り、唯今彼方(あちら)で熟々(つくづく)考えて居て、一つの良策を思い出しました。併し貴方は私の言葉を信じるでしょうか。」
雪子は服部が入って来たので漸く気色を回復し、
雪「先刻(さっき)も誓って申し上げた通り、今改めて言うまでも無く、貴方の仰せは何でも守ります。」
服部「屹度(きっと)ですか。」
雪「屹度で御座います。」
服部「それに就いて、もう一度確かめて置き度いこととは、今後如何なることが有っても、決して再び梅林の家には帰らない決心ですネ。安雅が残した巨万の財産には、必ず手を着けない考えですネ。」
雪「無論のことで御座います。あの汚らわしい家へ如何うして帰れましょう。あの血なま臭い財産に如何して手が着けられましょう。」
服部「それではお話致します。」
如何なる話をすることになるのやら。
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