巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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bijinnogoku29

美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

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美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人 共訳 

            第二十九回

 伯爵は蟻子の心中を見破ったか。蟻子の身の上を覚ったか。伯爵は決してその辺に気付かなかった。唯蟻子はこの様な荒くれ男が、自分を尋ねて来たと聞き、急に恐れ惑ったものであるとばかり思ったので、抱き付きながら之を慰めて、

 伯「あんな者が暴れ込んでも、決して怖(こわ)い事は無いから、確(し)っかり為成(しな)さい。今にあれは監獄にでも押し込めて遣る考えだ。心配し成(な)さるナ。」
と夫人を慰める伯爵の言葉に続いて、件(くだん)の曲者は再び張り声を上げ、

 「雪子・・・・。梅林雪子・・・・・。」
と呼(よぶ)ので、伯爵は嘲笑(あざわら)い、
 伯「ハハハハハ、梅林雪子だと、何を饒舌(しゃべ)っているのか丸で気違いだ。梅林雪子と言うのは、此方(こっち)が良く知って居る名前だ。雪子が何うしたと言うのだ。些(ちっと)も分からん。ノー蟻子、心配は無用だ。気違いには構わないで、早く家に入ろうじゃ無いか。」

と夫に励まされて、夫人はヤット座を起(た)ったが、心は未だ静まらず、夫が曲者の呼ぶ名を聞いて、吾が身の上を悟らない筈は無い。知りながら態(わざ)と惚(とぼ)けて隠しているのか。それとも本当に覚っていないのか。

 兎に角吾が運命も之までである。それにしても、憎(にっく)き曲者である。仮令(たと)え酔い狂って居て、前後を弁(わきま)え無いとは言い、妄(みだ)りに我が家の玄関に来て、聞くも怖ろしい我が昔の名前を呼び立て、哀しい身の上を世間の人に吹聴している。アア、恨めしい、アア、悲しいと心の底で嘆きながら、漸く馬車から出てで来たので、今まで玄関先に腰打ち掛け、足を延ばして無法の言葉を吐き散らして居た曲者は、夫人の姿を見てツト立ち上がり、両手を広げて、

 男「雪子さん・・・・。梅林雪子さん・・・・。」
と叫びながら、家従下男を押し除(の)け進んで、夫人の裾を捉(とら)え、尚も雪子、雪子と叫ぶので、夫人は之を振り放し、夫に扶(たす)けられて客間の方に逃げ入った。夫人を梅林雪子と呼び、この様な無礼を働くのは何者なのだろう。これこそ先の日、夫人に手紙を送って、公園に誘い出だし、夫人を強請(ゆす)って金銭を貪(むさぼ)ろうとした、葛西丹助である。

 蟻子に秘密の事ありとは夢にも知らない有田伯爵は、その無礼の状を見て、怒りの色を面(おもて)に現わし、
 伯「エエ、不届至極な奴だ、併し汝(おまえ)は些(ちっと)も恐れることは無い。心配しなくても好い。唯今捕らえて、その筋へ訴えて遣るから安心しなさい。」
と言い捨てて、伯爵は表方へ馳せ出ようとした。

 若し伯爵が之を捕らえて訴え出たなら、葛西丹助は必ず夫人の身の上を語り出すに違い無い。世間の人は夫人が梅林雪子である事から、安部丸子嬢と名を改めた後、復(ま)た今の蟻子と成った事まで、詳(つまびら)らか承知するに違い無い。そうなっては独り夫人が世の中に恥を露(さ)らし、名誉を汚すばかりで無く、又夫有田伯爵の面目にも拘わることなので、夫人は周章(あわて)て之を押し留め、

 夫人「ドウゾ左様な手荒らい事は為(せ)ずにお置き下さい。その方がもっと妾(わたし)は怖ろしう存知ますから・・・・。」
と震いながら夫人は諌(いさ)めたが、仔細を知らない夫伯爵は、之を聞き入れず、
 その様に怖がることは有りません。汝(あなた)は強(ひど)く気が転倒して居るのでしょう。葡萄酒でも飲んで、気を落ち着けて、少し休息して居なさい。」

と伯爵は鈴を鳴らして侍婢(こしもと)お伝を呼び寄せ、葡萄酒を申し付けて、その部屋を立ち出ようとした時は、夫人は最早や留める気力は無く、しょんぼりとして弱って居たが、この時年老いた料理番の一人は遽(あわただし)しくこの処に馳せて来て、伯爵に向かって、

 料理番「一寸表へお出ましを願い上げます。」
と言う言葉と共に伯爵は玄関の方へ立って出て行ったが、件(くだん)の曲者は大声を揚げ、
 曲者「是非夫人に逢わなければならない。逢わない内は決して帰らない。何うしても夫人が逢わないと言うなら致し方が無いから御主人に逢おう。御主人に逢わせておくれと叫びながら、奥の方へ進み入ろうとして、家従下僕と闘争している有様を見て、伯爵は大喝して之を叱り付け、

 伯「黙れ・・・・、馬鹿者・・・・、有田の主人は此の私だ。無礼を致せば打ち殺すぞ。」
と拳(こぶし)を振り上げてを之を白眼(にら)み付けたので、流石に丹助も威儀正しい伯爵の容貌を見て、少し鎮まると、伯爵は続いて、
 伯「サア、私が有田益美(ますとみ)だ。用事が有れば、早く申し立てろ。」
と急き立てた。

 丹助は言葉ゾンザイに、
 丹「私は葛西丹助と申す者だがネ、有田伯とは貴方の事か。此処へ出てお聞きなさい、話しますから。併し貴方の為、又貴方が強(ひど)く愛して居なさる人の為を思えば、外に人の居無い処(ところ)で逢い度いものだ。手間は取らせん積もりだ。僅か五分間許(ばか)りだ。貴方の夫人(おく)さんの事を話すんだ。夫人(おく)さんの生まれた身の上を・・・・。その来歴を・・・・。」
と憎々し気に語った。

 嗚呼、有田伯爵は今丹助の言った言葉を聞いただけで、蟻子の身の上に、善からぬ事が有ると思たに違い無い。酔い狂える丹助の言葉は、蟻子の為に思わぬ災禍(わざわ)いになるに違い無いと、信じたに違い無い。それでその言葉と言い、その様子と言い、その傲慢極まる丹助を見て、有田伯は、少しの間も我慢が出来ず、直ぐに捕えて役所に引き立てさせようと為したけれど、又熟々(つくづ)く考えて見て、我が最愛の妻の身の上を語たろうと言うなら、それを聞いた後に之を処分しても、それ程遅くは無いので、一応之を聞き糺(ただ)そうと、早速四辺(あた)りの人を遠ざけ、丹助を我が前に呼び近づけ、

 伯「サア、話せ、蟻子の身の上とは何事だ、速く話せ。」
と迫ったが、丹助は平気で、
 丹「エー、今に話そう・・・・。話は為(す)るが、貴方驚いては宜(い)けませんぞ。随分貴方は格式の貴い身分だが、それに似合わず、貴方が婚礼成(な)さった夫人は、誰だと云うことを御存知無いから可笑(おか)しい・・・・。ところがこの丹助はその事を存じて居ますよ。」



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