busidou10
武士道 一名「秘密袋」 (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)
ボアゴベイ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2013.12.27
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(画面設定が1024×768の時、拡大率125%が見やすい)
武士道上編 一名「秘密袋」 涙香小史 訳
第十回
副将軍小桜露人(つゆんど)は、取調べて居た地図を傍らに寄せ、篝(かがり)の光に縄村中尉の顔を眺めて、引き立てる兵卒に向かい、
「是は何者だ。」
と静かに問う。
兵「唯今捕らえた虜(とりこ)です。貴方が一応尋問の上、処分なさる事と思い引き連れて参ったのです。」
小桜は五月蝿(うるさ)いと云う風で、
「戦争最中に尋問などしては居られぬ。捕らへた者達の随意に処分して宜(よろし)かろう。」
と言ひ渡した。随意に処分せよと言うのは、思ふ存分に殺して仕舞えと云うに同じなので、兵卒は喜び勇んで、又も縄村を引き立てて去ろうとするが、小桜は縄村の着けている士官の制服に眼を留め、
「イヤ待て、尋常の捕虜(とりこ)では無く士官と見える。では一応尋問をしよう。」
と云い、初めて縄村に打ち向かい暫し彼の勇ましい顔色を眺めるに、縄村も又小桜露人の若々しい顔を眺め、まだ一個の少年なのに、既に副将軍に立てられ、一軍に重きを為しているのかと敵ながらも窃(ひそか)に感心せずには居られない。
尤も勤王軍には数多の老将も有りとは言え、大将軍ロセジャケリンは僅(わず)かに二十二歳であるので、小桜露人が二十四歳にして副将軍であるのも怪しむには足りない。唯縄村は自分が此の小桜と似か寄った年齢なのに未だ中尉であるのに引き比べ、副将軍という名に感心したのみ。その中に小桜は同輩に向う鄭重な言葉を以って、
「貴方は民兵では無く、常備兵の士官と見えますな。」
と問うた。むざむざ兵卒に射殺されるだろうと覚悟した身が、副将軍からこの様に鄭重に問われては、死に栄えのする様に思い、縄村は俄(にわ)かに勇気が胸に満ちて来る心地して、
「左様です。明日貴方の軍が敗走する其の逃げ道を絶つために、ロンノン河に陣して居るクレバア将軍の一隊です。」
と大胆に言い切った。
露「近来不幸にして勤王軍の者が貴方の軍に捕らわれれば無残に射殺されて果てますがーーー」
と半分言うのを遮って、
縄「ハイ、貴方の方では自分で勤王軍などと立派な名を付けて居ますが、我々の目で見れば、領民を苦しめる山賊の様な者です。之を殺すのに何の容赦も有りません。」
山賊と罵(ののし)られて小桜は敢て怒らず、
「イヤ、山賊で有るか勤王で有るかそれは各自の胸中に在る事で、他人から裁判することを容(ゆる)しません。兎に角双方とも捕虜に対して少しも容赦を加えない際なので、貴方としても直ちに射殺される者と覚悟しなければ成りません。」
縄村は断固として、
「無論です。山賊輩から塵ほどの恵みを受けるのも汚らわしいと思います。況(ま)して我が命を貰おうなどとは、魂魄(たましい)が腐っても思いません。」
其の言ふ所、勇気を装うのでは無く、真実に心の底から発するものなので、小桜も又密かに感心し、
「アア、貴方は真の勇士です。」
縄「共和軍に勇士の有るのは怪しむに足りません。貴族で無ければ従容として死に着く気力が無いと思いますか。」
この様に言う折りしも先に縄村が放った戦場の火は益々燃え上がり、遥かに離れたボース河のほとりである此の仮営まで俄(にわ)かに明るくなったので、小桜は怪しんで外面(そと)を眺めながら、縄村の縄を取っている兵士に向かって、
「アノ火は。」
と尋ねると、兵士の未(いま)だ答えないのに、縄村は自ら答へ、
「アレは貴方の兵が卑怯にも町外の家に隠れ、家の中から私の部下の銃手を射殺しますから、私が放ったのです。ハイ貴方の兵を焼き殺して遣ろうと思いました。あの火の為に山賊らが大勢焼け死んで居ると思えば私も愉快に死にます。貴方が私を殺すのは自然と復讐に成りますから、なるべく早く殺して頂きましょう。」
益々小桜露人を怒らせる様に言ったが露人は、一言一言に此の士官の勇気に感心し、
「アア貴方のような勇士に方向を誤らせるのは何よりも遺憾です。」
縄「方向を誤らせるとは。」
露「イヤサ、貴方が勤王軍の為に働けば名を世史に垂れ、天晴れ忠臣と云はれる人ですのに、正邪の道に踏み迷ひ、共和党などと言う偽党に投じ、正統の君王に敵対するとは実に惜しむべき限りです。併しナニ、未だ正道へ踏み返るのは決して遅くは有りません。どうです、今から心を入れ代えて、君王の為に尽くしませんか。私は貴方の様な勇士と手を携へて進むのを本分と思います。今にして貴方が正邪の別を悟れば、私は大将軍に推薦し、必ず貴方を一方の長として幾百の兵士を分け与えますが。」
と全く赤心を披(ひら)いて言うのは、年若くとも流石に副将軍と仰がれる徳は有りと縄村も及び難いのを感じたけれど、小桜が勤王軍を思うほど、此方は共和軍を思う者なので、非常に冷淡に、
「貴方は反復(うらぎり)を私に勧めるのですね。」
露「イヤ爾(そう)では有りません。正しい道に立ち返れと勧めるのです。」
縄村は充分に小桜の顔を見詰め、
「貴方が若し私の地位に立てば何と致します。敵に捕らわれ、敵の大将から此方の味方に翻(ひるがえ)れと説かれれば貴方は多年の味方を捨て忽ち敵に加わりますか。」
此の反問には小桜も答える事ができず、空しく顔を赤らめるのみだったが、到底此の勇士を助ける口実は無いと思ったか、幾度か嘆息して、
「アア致し方有りません。ではもうどうしても通常の捕虜同様に処分する一方です。」
縄「ハイ、私も共和政府の万歳を三呼して射殺されるのを、此の上無き武人の名誉と心得ます。」
是で縄村の運は極まった。小桜は悄然として、
「併し捕虜として貴方の様な立派な振る舞いは見た事が有りません。貴方の勇気に免じ、貴方へ部下の兵三名貸しますから、貴方は自分に此の三名へ号令して射殺されるが好いでしょう。貴方の様な人は号令しながら仆れる身分です。
我を殺そうとして銃を挙げる者に我自ら、
「狙いを定めよ。」
「放てよ。」
と号令して射殺されることは、普通の人の為すことが出来ない所であるが、当時武人の名誉とした所なので、縄村は初めて小桜の行為の有難いのを思い、
「真に私は本望です。平民の子と雖(いえど)も貴族の子と同じ様に立派な死に様の出来る事を貴方へお目に掛けましょう。唯貴方が共和軍の大将と為らずして勤王軍と自称する山賊の大将に為ったのは私の深く遺憾とする所です。」
小桜は之に答えず、更に
「貴方は親とか兄弟とかへ、何か言い残す事は有りませんか。若し有れば私が聞き取って、貴方の臨終の言葉として親なり兄弟なりへ伝えましょう。」
と云うのは軍人相対する慈悲というものだろう。
「私には親も兄弟も有りません。それに貴方とても数日の中には軍(いくさ)破れて共和軍に攻め滅ぼされる身の上ですから、他人の遺言など取り次ぐ暇は有りますまい。」
と言い切ったが、忽ち思い出した様に、衣装を探り、
「イヤ、一つ失念していた事が有ります。貴方の軍に属して居る一少女がこの品を遺失して私が拾ったのですが、どうか之をその少女へ返して戴きたいと思います。」
と言って彼の秘密袋を取り出だした。
次(第十一回)へ
a:881 t:1 y:0